教育福島0203号(1997年(H09)06月)-029page

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女は、私と目があうのを避けるように、下ばかり見ているようになったのです。どうしたらよいのだろうと思い悩む日々を過ごしました。

そんな私を救ってくれたのは、学級の子供たちの一言でした。

「先生。口元が笑っているよ。待ってると返事するんだよ」

子供たちは、彼女のちょっとした表情の変化から、気持ちを察し、会話を交わしていたのです。このご言を聞き、私がなんとかしてやろうと思っていたことを、恥ずかしく思いました。その時から、私は、彼女の表情や体で表す言葉を、見逃さずに聞き取ろう、待っていようと心に決めました。すると、不思議なことに、彼女の方から近づいて来て、私の話にうなずいたり、口元をほころばせたりしてくれるようになったのです。三年間、担任として接し、学級の中では、小さな声で返事をしたり、教科書を音読したりできるようになったころ、卒業式をむかえました。

「別れの言葉」で、彼女が話す言葉は、「お母さん」。その一言を学級の子供たちは、何度も彼女と一緒に練習してくれました。全体練習になると、声が出なくなる彼女に代わって、みんなで言ってくれました。

一人で言えなければ、みんなと一緒に言えばいいと、励ましながら臨んだ卒業式。彼女の順番が回ってきた時の胸の高なり。小さいけれど、はっきり聞こえた彼女の声。子供たちの嬉しそうな目。今でも鮮明に、思い起こすことができます。

あれから十四年。時おりかかってくる彼女からの電話の声を、懐かしく思い、今でも「先生」と呼んでくれることを嬉しく感じています。

新米教師であった私に、彼女と学級のみんなが教えてくれた「子供の力を信じて待つこと」を忘れず、いつまでも子供たちとともに成長できる教師でありたいと思っています。

(会津本郷町立本郷第二小学校教諭)

 

変わらないもの

大竹孝喜

 

す卒業生たちを目の前にし、私が中学生だったころのことが頭をよぎりました。

 

今年三月、卒業生を無事送り出すことができました。後輩たちと肩を抱き合いながら涙を流す卒業生たちを目の前にし、私が中学生だったころのことが頭をよぎりました。

私は、現在勤務しているこの中学校で卒業式を迎えました。当時は全国的に学校の荒廃が社会問題としてクローズアップされ、テレビでは長髪でおなじみの「金八先生」や、横浜銀蠅の歌が盛んに流れていた年でした。新聞紙上では、校内暴力や器物破損などのニュースが毎日取り上げられるほどの状況で、やはり郡部の学校もそのような雰囲気の中にあったと思います。「社会が悪い」「教師が悪い」「親が悪い」と、躍起になって犯人探しをしていた社会の風潮が当時、中学生の私にも感じられました。どこに基準をおいてよいか分らず、ただ惰性の中で生活していた自分自身が、今も恥ずかしく感じられてなりません。

ところで、中学時代は、既成の社会の考えや周囲の大人たちに対して、反発な反抗を繰り返すといった現象がよく見られます。これは、大きな不安と焦燥がつきまとう極めて不安定な思春期を乗り切るために、子供たちが行う「価値」への挑戦ではないでしょうか。子供が自覚しているかはともかく、「自分の考えは正しいのだろうか」といった疑問を、周囲の大人たちに反発や反抗といった形で問いかけているのではないでしょうか。そのような中で、自分で納得できる「生きていく上での大切な価値観」を見につけていくのだと思います。もし、そのような状況で、周囲の大人たちが子供に譲歩するばかりの対応をとったならばどうでしょうか。子供たちは、ますます不安になり、さらなる壁を求め暴走していくのは目に見えています。私たち大人もそうですが、これだけ価値観が多様になった社会で生きていくことは非常に不安です。順調な生活を送っていれば、そう悩むこともありませんが、人生の岐路での選択や、仕事に行き詰まったときなどの苦渋は想像を絶するものがあります。そんな時、心の支えや生き方の選択の大きな判断材料となるものは、育ててくれた家族や今まで出会った人たちの価値観でないでしょうか。

様々な情報が氾濫し、表面上は大きく変わったかに見える子供たちですが、周囲の大人たちに求めていることは、今も昔もそう変わっていないのではないでしょうか。「その人の人生は、その人にかかわった人の人生の影」、少しでも子供たちの成長の糧となれるような教師になることができればと切に思います。

(下郷町立下郷中学校教諭)

 

 

 


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