教育福島0204号(1997年(H09)07月)-024page

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クの車線変更禁止、高速車用登坂車線などの合理的で適正なルール、それ以上に、一般道ではピタリと制限速度を守る、ドライバーのマナーのすばらしさだ。

あとで分ったことだが、ドイツ人の安全に対する高い意識の背景には、どうも幼児期からの安全教育が関係しているらしい。それは幼稚園児の目の前で人形を礫いて見せたりする徹底的なやり方である。よきにつけ悪しきにつけ、この「徹底的」というのがドイツを理解するキーワードではないかと思っている。

ところで、最近日本国内のさまざまな問題について、ドイツが引き合いに出されるケースが多くなった。例えばごみ焼却時のダイオキシンの問題では、ドイツの徹底した分別収集が取り上げられる。ちなみに家庭用焼却炉などというものは当然存在しない。核開発が話題になるとドイツの風力発電施設の稼働率は世界一とくる。リサイクルに関して言えば、清涼飲料の瓶を統一するような徹底した取り組みは、我が国ではまだまだ少ない。また、道路新設にあたっては切り開いた森と同じ面積を植林するという実に感動的な話も聞いた。例の諌早湾は、ドイツ人ならどうしただろうか。

森の国ドイツの大人たちは、自らの芳醇な文化を育んだ自然を愛し、次世代へと引き継ぐことを高次の目標と定めているように見える。また、本当にいいことはためらわず実行するすばらしさを持っている。それがかなりの規模であっても、国をあげて、「徹底的」にである。

一方、愛すべき我が国の現状はどうか。たまの休日、家族でドライブと洒落こむと、追い越し車線で激しく軽自動車をあおるトラック。信号待ちの道路わきや分離帯にはカラフルな空き缶の数々である。

近年、社会が持つべき教育力の低下が叫ばれて久しいが、商業主義に踊らされ、官僚システムに縛られ、骨太な思想の無い日本の大人たちは、当分の間ドイツ人にはかなわないだろう。毎日生徒と接する大人の代表として、身の引き締まる思いがする。

私の旅行中のいまだに忘れ得ない場面。赤ん坊連れでバスから降りてきたお母さんが目に入り、颯爽と道を譲った私の肩越しをすり抜けて、乳母車降ろしを手伝いにいった青年の後ろ姿。私がしばし恥じ入ったのは言うまでもない。ああいう背中に当地の子供たちは日々教育されているのだと思わずにはいられない。

(福島高等学校教諭)

 

情報化社会の中のPTA活動に思うこと

小黒敬三

 

、テレビ、インターネットと様々で、携帯電話のベルも鳴り放題の現実である。

 

現代の社会は、情報化社会といわれるようになってから久しく、あらゆる情報が無制限に近い状態で氾濫し、必要とあらば世界中からリアルタイムで得ることができる。その手法も新聞、テレビ、インターネットと様々で、携帯電話のベルも鳴り放題の現実である。

ところで、これだけ溢れている情報のうち本当に価値のあるものはどれくらいあるだろうか。特に、最近のマスコミの報道をみると視聴率が全てに優先し、判断基準も曖昧で混乱を招いているとしか思えないようなところがあり、私たち受手側の選択も難しくなっている。人には、最初に入ってきた情報になるほどと思うと、反対の見方があることが分かっていても最初の情報を元にして推理と、判断をする面がある。これは本人の気質もあるが脳の性質上の問題でもあるらしい。よほど注意をしないと片寄った情報に左右される危険があると言えよう。

さて、わたしたちのPTAの組織をこの「情報」という視点で見てみると、どうだろうか。ベテランの先生方は別として会員、役員そして各委員会のメンバーが組織運営に関して必ずしも得意とは言えない。大半の方は、推薦または順番、場合によっては義理で務めていることもある。従って強力なリーダーシップにより運営されているわけではなく、また会員が一堂に会する機会もそう多くはないため、ほとんどの情報は井戸端会議的に伝わって、針が棒に、メダカがマグロになり、メダカの中のトロ一丁上がりと言うようなことがままある。

しかし、会員一人一人が目的をしっかり自覚さえすれば、そう危惧する問題でもなかろう。その目的とはPとTが協力して次の時代を担う子供たちを育てると言うことだ。そこには自分の子供とか他人の子供、学校側と保護者側といった相対する考え方はなくなるはずである。隣りの洟垂らしが国会議員になって福祉教育予算をつけるかも知れないし、いじめられっ子の女の子がヘルパーとして年老いた自分を介護しているこ

 

 

 


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