教育福島0204号(1997年(H09)07月)-026page

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がたつのを忘れさせた。

飛行機の観測データはなかった。高層天気図は弱い西風の場であった。地上データからも、九百九十ヘクトパスカルの台風であると、解析できる決定的な資料はなかった。

当時は、気象衛星画像もなく、これだけのデータから、どうしてこの台風を発見できたのだろうか。

なんにも決定的なデータがなかった当時、この天気図を解析した予報官は、大きな決断をして台風を解析したにちがいない。自分の気象学の知識を総動員して、どう考えてみても「これは台風だ」と叫んでいるように思えた。この天気図を解析した人はすごいと思った。この人に会いたいと思った。

「この天気図の原図は残っていませんので、だれが解析したか分りません」という返事だったが、心残りであった。

その年の夏休みは、蝉時雨の国立国会図書館の中にいた。あの不思議な台風と似たような熱帯低気圧があることを、いくつかの文献から知った。西部太平洋よりも大西洋に多く発生初期は温帯低気圧の発達過程をたどるが、中心近くの積乱雲の潜熱により、より熱帯的な構造になるということだ。

完全な熱帯低気圧でなく、亜熱帯低気圧、半熱帯低気圧、混成型低気圧などと呼ばれている。さらに、驚くことに最近では、真冬の日本付近でも、台風と似た暖気核を持った低気圧が表われることも分かってきた。

今も、朝起きると真っ先に新聞の天気図を見る。時折、「私は、こう解析しました」と、語りかけてくるような天気図に出会うことがある。

そんな日は、コーヒーカップの渦とともに、いい天気図に出会えたなと浮き浮きするのである。

(会津若松市立城南小学校教頭)

 

『たまごっち』と『生命』

久野雅敏

 

「もうあきちゃった。面倒だから殺しちゃおうか」

 

「もうあきちゃった。面倒だから殺しちゃおうか」

なんとも物騒な言葉であるが、これが昨今の中・高生の間で流行している『たまごっち』の末路である。

不易、流行という言葉があるが、まさに『たまごっち』は流行の最先端をいくものである。しかし、今までの流行と大きく異なっているのは、それがたとえ機械にせよ、「生きる」ということをテーマにしたものだということであろう。

生きとし生けるものにとってかけがえのない命の尊さを小さなゲーム機の中に見い出し、愛情を注いで育てることを目的として生み出されたに違いない(この流行)が、現在その目的とは大きく異なる使われ方をしているのは残念でならない。

すなわち、『育てる』ことが重要なのではなく、『持っている』ことがまず大切なのだ。だから持っているだけで満足し、その後の面倒な飼育は放棄してしまう。場合によっては、どんな『死に方』をするのか興味津々で見つめているという。

この『たまごっち』が、現在幼稚園児の中でも話題になっているらしい。幼稚園の中で、持っている子供はヒーローとなり、持っていない子供はそれを欲しがるという両極端の構図ができ上がっている。

しかし、この『たまごっち』なるものは実際に手にするとわかるが、幼稚園児が操作するにはかなり複雑である。当然ながら、真の目的である『育てる』ことは不可能で、ゲーム機の中のキャラクターは、死の運命をたどるしかない。

しかし園児は言う。

「死んじゃったら、リセットボタンを押せばいいんだよ」

昨年から本校では、修学旅行先に沖縄を選んだ。そこで生徒たちは、リセットボタンでは生き返らない現実を数多く知ることができた。

ひめゆり部隊として出陣し、奇跡としか言いようのない生還を果たした人の体験を聞き、涙を流す姿が見られた。

「平和であったなら、あなたはそんな壁の遺影の中で微笑んでいるのではなく、この美しい青空の下で微笑んでいられたのですね」

こう感想を綴った生徒の気持ちに嘘はない。あの時流した涙はつくり物ではない。そう信じる。

『たまごっち』の流行を肌で感じながら、私たちはもっともっと「生命」というものを真剣に教えていかなければならないのではないかと感じる今日このごろである。

『たまごっち』のことを聞くにつけ冒頭の言葉が、脳裏にしみついて離れない。

(浅川町立浅川中学校教諭)

 

 

 


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