教育福島0204号(1997年(H09)07月)-028page
ようとしてはいけない。子供との我慢比べという気持ちで指導してみてはどうだろうか」と言われた。相手は子供であり、子供の気持ちを考えながら、子供のスペースで問題解決をしていかなければならないということを痛感させられた。
また、学級経営では「子供たちの後ろを歩いていないで、高い位置から全体を見ながら先に行き、子供たちがやってくるのを待っているゆとりを持っては」とも指導を受けた。
確かに先輩に追いつこうとする焦りばかりで自分自身にゆとりがなく、子供たちを自分の枠に当てはめようとしていたに違いなかった。
そんな自分の若いころを思い返しながら、子供一人一人を理解し、個性を生かしながら生徒指導や学級経営で頑張っている若い先生方に、いつでも気軽に声をかけられる教職員間の人間関係を大切にしていきたいと考えている。
(いわき市立小川小学校教頭)
T君と出会って
松崎伯文
私も教職に就いて、いつの間にか十年が経っていました。その中で三年間、養護学校に勤務する機会を与えられました。特に、そこで出会ったT君のことが、今でも忘れられません。
入学時、T君は知的障害という判断がされました。当時十六歳で、身体は私よりも大きく、力もありました。しかし、言葉が話せず、お父さんが付き添っての通学でした。私はT君たちが社会に出ても困らないようにと、社会常識を教えることばかりに気を取られる毎日でした。そんな私の身体には、T君とのトラブルによる生傷が絶えませんでした。
ある昼食時のことでした。その日のおかずはコップのような底の深い容器に入っていました。T君は、普段、箸を二本握って、皿や弁当箱から口に流し込むように食べているので、いつか指導しようと思っていました。ところが、T君は私が苦労して教えようとしていた箸の持ち方で、いとも簡単につまんで食べていたのです。T君はできるのに、必要性がなかったからやらなかったのだということに、初めて気付きました。そのことを知ろうともせず、ただ一方的に教え込もうとしていた自分が恥ずかしくなりました。T君はT君なりの考え方で物事に対処していたのです。彼の心を理解できなかった自分に対し、不甲斐なさを感じるとともに、このことに気付いてからはT君への見方が変わり、私の生傷も減ってきました。
ちょうどそのころのことです。T君が教室にいないので、さがしていると、他の学級の先生が「授業中に教室に入ってきたので……」と連れてきてくれました。T君は興奮気味でしたので、落ち着くまで二人で別室に居ることにしました。しばらくして、突然T君が泣き出しました。私には、「T君が何か目的があって他の教室に入っていたのに、それをうまく伝えられない」ということがはがゆくて泣いているように見えました。そう思うと私も涙が流れてきました。そして、「一番に、T君にしてやらなければならなかったのは自分の意思を伝える方法を教えてあげることではなかったのではないか。そうすれば、こんな苦しみを味わわせなくても済んだのではないだろうか」という思いがあふれてきました。
T君は、最後のお別れの日に帽子をとって、礼をして帰っていきました。私は彼から、生徒の側に立つということの大切さと、難しさを学びました。今は、そんなT君に感謝の気持ちで一杯です。
(いわき市立入遠野中学校教諭)
地震・自信・自身
菅澤由加里
先日、地鳴りを感じ、「来る!」と思った次の瞬間地震が起きた。以前はよくこのような体験をしたものだったが「二十歳過ぎればただの人」という言葉通り、地震の予知をする地鳴りはしばらく感じられなかった。二十歳をとうに過ぎて、地震だけでなく、自信を感じることも少なくなってきたように思えてならない。
身近な自然界で最も恐ろしいと感じる地震。今震れ動いているものは地面だけでなく、私の自分に対しての自信でもある気がする。よく「絶対大丈夫だから」という言葉を使う