教育福島0204号(1997年(H09)07月)-029page

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人がいるが、その「絶対」ほどあてにならないものはない。であるから、なるべく「絶対」などという言葉は使いたくないのだが、使う時には自信を持って使えるだけの経験があるものだけにしたい。「絶対」と「自信」は比例している言葉だと思う。「絶対」という言葉が嫌いなのは、自信を持てるだけの経験の乏しさゆえに、今の私の自信を失わせているからかも知れない。

初めて担任を持って二年目。何が何だかわからず無我夢中だった一年目に比べ、自分の力量が試される年である。そんな気負いが良いのか悪いのか。自分自身というものが分らなくなっている。

私は天才肌ではなく。自他ともに認める努力型である。ゆえに努力のわりに結果が出ない時もよくある。しかし、今の私を築いてきたのはあきらめずに続けてきた経験であり、人とのつながりである。運動音痴の私がスキーやテニスをはじめ、人より上達には時間がかかったものの今は楽しんでできるだけの余裕ができた。「急がば回れ」ということわざがあるが、人生もいろいろ回り道をし、たくさんの人とふれあい、たくさんの経験を重ねた方が自分の財産となる。きっとそれは教育の場も同じなのだと思う。教師と生徒の絆なんて一日や二日でできるものではないが今までの少ない経験からも生徒に「ありがとう」なんて言葉を言われると、それまでのムシャクシャした気持ちがどこかへ吹き飛んでしまう。じっくり時間をかけて生徒と向き合い自分自身に余裕がでてきた時に、自然と自信もついてくるのだと思う。

どうせ避けて通れないものなら、イヤイヤではなくて楽しみながらプラス思考で臨んだ方が良い。「なんとかなる」という大ざっぱなO型ならではの性格が私自身であり、その結果善くもあり悪くもあったが、これからも無理な背伸びはせず、自分自身の気持ちに素直に自分らしさを打ち出して、たくさんの自信を身につけていきたい。

(浪江町立浪江高等学校教諭)

 

日々前進

齋藤貴子

 

「先生、一緒にドッヂやろう」

 

「先生、一緒にドッヂやろう」

休み時間になると子供たちが私に声を掛けてくる。

「いいよ。一緒にやろう」

と返事をすると、子供たちの顔がにこにこ顔になる。受け持ちの学年だけでなく、他の学年からと声が掛かる。嬉しいことである。子供たちと一緒に本気になってドッヂボールやバスケットボールなどをして遊んだり、子供たちの楽しそうな顔を見ていると、私の方まで楽しくなれる。また、悩んでいたことも忘れられ、とてもリフレッシュできる。

早いもので、教育としての生活がスタートしてから七週間が経過した。大学を卒業し、初めての学校、初めての一人暮らし、そして初めての只見町、生活全てが初めてのことばかりで心細く不安だった。今春大学を卒業したばかりで、何も分らないこんな自分が、教員をやってもいいのだろうかという思いにかられ、何をするにも緊張の連続で、不安でしかたがなかった。

しかし、只見小学校の先生方は私を暖かく迎え入れてくださった。優しく丁寧に様々なことを教えてくださった。そんな温かな心にふれていくにつれ、緊張しきった心も少しずつほぐれていったような気がする。

始業式で初めて受け持つ三年生十九名の子供たちに会った。子供たちの目はとても輝いて見えた。そんな子供たちの前で教鞭を取るのかと思うとまた緊張してしまい、前日にいろいろ考えた担任挨拶であったが何を話したのか全く覚えていない。

三年生の子供たちは、明るく素直で活動的である。私と同じように体育が好きな子が多く、とても活発で毎日のように事件が発生する。事件が起こる度に先生方に相談し、なんとか解決してきた。人前で話をすることにも少しずつ慣れてきた。指導技術が劣る分、今は若さでカバーしていくしかない。

こんな私だが、最近悩んでいることがある。授業中、子供たちがなかなか静かにならないことだ。大きな声で怒鳴ると、それに輪をかけたように子供たちも大きな声になるし、低い声で言っても初めは静かになるがすぐに騒ぎ出す。ギャングエイジと呼ばれる三年生を静かにさせるのは、私には難し過ぎるのだろうか。いや、何か、私なりの私にしかできない方法が必ずあるはずである。それを早く見つけられるように、いろいろなことを試していきたい。それが見つかれば、一つ前進できるはずだ。失敗を恐れないで、日々前進していきたいと思う。

(只見町立只見小学校教諭)

 

 

 


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