教育福島0204号(1997年(H09)07月)-030page

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図書館コーナー

朝河貫一

書簡コレクション

 

英国もののエッセーで最近人気の高い林望の近著『書藪巡歴』の中に、二本松市出身の世界的な歴史学者朝河貫一の蔵書整理法を紹介した一節があり、興味深い。それによればアメリカのエール大学教授であった朝河は、日本で書物を購入した際、数冊分を合わせてまったく西洋風に改装、製本してから書架に並べていたそうです。いかにも学者らしい合理的な彼の性格をうかがわせるエピソードですが、書簡類もきちんと整理、保存していたようで、当館でも約二千五百点の朝河貫一書簡コレクションを所蔵しています。

伊藤博文、大隈重信、徳富蘇峰、坪内逍遥、野口英世ら、当時の日本を代表する著名人や外国の知友たちと交わした邦文・英文の手紙で、当館の誇るきわめて重要な資料の一つです。これは朝河の旧制安積中学の後輩で、東京大学史料編纂所教授であった阿部善雄氏の尽力により、朝河の遺族にあたる月舘町の斎藤信夫氏の了解を得て、昭和五十九年に当館に収蔵されたものです。

さらに昨秋、川俣町長の渡辺弥七氏より貴重な朝河関係書簡五通を寄贈いただくことができたので、その概要を紹介します。これは、渡辺町長の祖父に当たる渡辺熊之助氏(後に弥七を襲名)と朝河との間で交わされた手紙で、二人は小・中学校時代に同級生でした。

 

1) 朝河貫一より渡辺熊之助宛

(明治二十七年十月二十八日付)

東京神田の下宿から、アメリカ遊学のための費用の借用を申し入れたもの。向学の志を述べ、「只此書は卒爾にあらず、余が最深情を傾け、余が全身の霊を以て君に訴ふる所なり。一片の卑劣なきを信ず」という、当時の朝河の真情を吐露した文章です。

2) 渡辺熊之助より朝河貫一宛

(明治二十七年十一月四日付)

書簡1)に対する返信で、確約はできないが借金の依頼に応じる旨の文面。親友であった朝河からの熱望に対して、精一杯努力してみると答えており、熊之助の誠実な人柄を伝えています。なお、朝河は九年後に借金を熊之助に返済しました。

3) 朝河貫一より渡辺熊之助宛

(明治二十七年十一月十三日付)

朝河の手紙に関する熊之助からの疑問に答え、さらに「私は孔子ニも基督ニも釈迦ニも失望仕候」と自己の宗教的な迷いを告白。当時の朝河の思想を如実に反映しており、アメリカ留学の目的についても言及。朝河の伝記資料としても重要な長文の書簡です。

4) 朝河貫一より渡辺弥七(熊之助)宛

(明治三十九年十一月十一日付)

朝河がアメリカからの第一回目の帰国時に、東京から発信した手紙。弥七が上京時に朝河を訪問した際の不在をわび、再び上京の機会にはぜひ会いたいと述べ、「日本を長く去る身なるが上に、両親に別れたる故にや、友のみ慕はしく候」と記す。

5) 朝河貫一より加藤宛

(明治三十九年十一月十一日付か?)

書簡4)に同封されていたもの。加藤は朝河の川俣小学校当時の友人、加藤哲次のことと推定されている。友に対して、自己の人生感を率直に吐露しており、彼の謙虚な性格もうかがわせる内容。

 

これらは2)を除き、平成二年に出版された『朝河貫一書簡集』に掲載されていますが、当館ではこの度寄贈いただいた五通の書簡の実物を今年二月から三月にかけて展示し、県民に公開いたしました。

さらに、原資料の破損防止と資料活用の両立を図るために、この五通を含めて当館所蔵の朝河関係の全書簡をCD-ROM化し、パソコンで自由に検索、閲覧できるようにしました。未公開の書簡も多く、また朝河は明年末まで著作権がありますので、当分の間は著作権法の規制の範囲内での利用になりますが、CD-ROM化によってなお一層、県立図書館の朝河貫一書簡コレクションが有効に活用され、研究の推進に大きく寄与することが期待されます。

 

 

 


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