教育福島0204号(1997年(H09)07月)-032page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

心に残る一冊の本

 

新鮮な旅人であるために

伊達町教育委員会教育長

三浦賢一

 

、瀬音を耳にしながらゆったりとした時間の中に身を置いて頁をひらいてみる。

 

日曜の朝この本を手にして散歩に出かける。松川の土手に腰をおろし葉桜の下で、瀬音を耳にしながらゆったりとした時間の中に身を置いて頁をひらいてみる。

「きみはいつおとなになったんだろう。きみはいまおとなで、子どもじゃない。子どもじゃないけれども、きみだって、もとは一人の子どもだったのだ」で始まる「あのときかもしれない」という詩は、おとなになった人間が幼少期を振り返り、もはや子供でなくなったその一瞬を思い出そうとして、意外な捉えにくさにとまどう気持ちをあらわしている。「それは、道を歩くことがもう遊びでなくなったときか、何ごとにも「なぜ」と考えなくなったときか(中略)ある日ふと父親の孤独な背中を見てしまったあのときかもしれない」

平明な言葉でおとなの生活感情を人生の時間の流れを歌っており通過儀礼と成熟の試練を持たないふしぎな優しさを身につけた新しい青春の姿を眺めている。この詩の主語は「私」ではなく、二人称の「きみ」が用いられているが、自我の内部に「きみ」を見いだし静かに自問自答を交わすのにふさわしく作品のやさしい感情の表現を助け、深呼吸を促してくれる。

「ただ歩く。手に何ももたない。急がない。気に入った曲り角がきたら、すっと曲る(中略)どこかへゆくためにでなく歩くことをたのしむために街を歩く」という「散歩」という詩もよい。散歩のたのしみはなにげない偶然の光景の採集だと語っている。心を解き放って歩くと筋肉がほぐれて目に見えるもの耳にきこえるものが、自然の色や音がいきいきと心にしみてくる。よく吟味された一つ一つが深呼吸のための言葉である。人生に深呼吸が必要なように、今、時代そのものが深呼吸を必要としている。

思えば私にとり、著者と出会い校歌や町民の歌の作詞をお願いする縁となった忘れ得ぬ本である。

 

本の名称:深呼吸の必要

著者名:長田弘

発行所:鰹サ文社

発行年:一九八四年三月二十日

本コード:ISBN四-七九四九-三五二六-九

 

時空を超えて

教育庁財務課主任主査兼助成係長

本田良子

 

ロコシの収穫と調理は彼等の生活であると同時に何人も侵せない文化なのです。

 

女達は朝暗いうちに起きてトウモロコシを石で挽き、男達が畑から帰ってくる頃までにトルティージャを作る。製粉機を使えば楽になると知っていても、インディオは製粉機を受け入れません。トウモロコシの収穫と調理は彼等の生活であると同時に何人も侵せない文化なのです。

アステカ、マヤ、インカなどの輝かしい古代文明を築いた人々の子孫であるラテンアメリカのインディオにとって、コロンブス以後の四百年間は、白人による抑圧の歴史でした。文化を否定され、コーヒー摘みや綿花摘みの労働力として、彼等はほんの小さな子供の頃から働き、絶え間ない貧困に苦しんできました。

この本は、「人間らしく生きたい」という願いから立ち上がったグァテマラの若いインディオ女性の証言です。インディオに対する搾取と差別について、国際社会は長い間無知でした。あるいは無関心でいることができました。インディオ側からの情報発信がなかったからです。リゴベルタ・メンチュウは解放の闘いの中で、タブーを侵してスペイン語を習得し、差別や虐待の実態を全世界に知らしめました。

彼女はこの本の中で、インディオの受難の歴史とともに、生まれ育った共同体の習慣と信条を入念に描写していきます。祖先の戒め。母なる大地。自然との調和。読み進むうちに古来文明の懐深く招待され、なぜか幼い頃の、祖父や両親が田畑で働く情景が蘇ってきます。

グァテマラと日本の片田舎。遠く四百年の時空を隔てながら、祖先を敬い土に生きる姿は重なるものがあります。戦後、特にこの二十年で私達を取り巻く環境と価値観はすっかり変わってしまったけれど、私達がどこかに置き忘れてきたものを、異文化尊重の難しさとともに、この本は静かに教えてくれます。

 

本の名称:私の名はリゴベルタ・メンチュウ マヤ=キチェ族インディオ女性の記録

著者名:エリザベス・ブルゴス

発行所:新潮社

発行年:一九八七年一月二十五日

本コード:ISBN四-一〇-五一九五〇一-八

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。