教育福島0204号(1997年(H09)07月)-051page
ふるさと探訪
県指定重要文化財(有形民俗文化財)
旧修験日光院所蔵修験資料
所在地 相馬郡鹿島町小山田宇戸ノ内五一八番地
所有者 日光寺
江戸時代まで、修験者は山伏とか法印様などと呼ばれ、加持祈祷を通して地域に密着した宗教活動を行ってきました。
本県の修験は、聖護院を本山とする天台宗密教系の本山派と三宝院を本山とする真言宗密教系の当山派と出羽三山を本山とする羽黒派が活躍していました。
日光寺は明治初期の神仏分離までは華輪山立石寺日光院と称する羽黒派修験寺院でした。日光院は宇多、行方、標葉三郡の羽黒派修験寺院の本寺を務める相馬地方の代表的な修験寺院で、『奥相志』によれば、江戸時代の半ばには配下寺院は九十三寺を数えるにいたったとあります。
伝承では、日光院は相馬氏が元亨三(一三二三)年に下総から奥州の地に移ってきた際に従って来たもので、はじめ栃窪村(現鹿島町)にあったといわれ、慶長年間(一五九六〜一六一五)に小山田村に移り、延宝年間(一六七三〜八一)に城下の中村(現相馬市)に移っていましたが、神仏分離以後天台宗に帰属し小 山田に戻りました。
今回の指定資料は天正一四(一五八六)年の補任状(写真)などの文 書の他に仏像や仏画、法具などがあり、羽黒派修験の活動の実態や動向を知る上で貴重な資料です。
県指定史跡
傾城壇古墳
所在地 安達郡大玉村大字大六字愛宕八〇番地、ほか
所有者 個人
傾城壇古墳は、本宮から北上する旧奥州街道の東側の標高二九〇余メートルの丘陵上に位置し、墳丘の長さ約四十一メートルにおよぶ前方後円墳です。昭和三十七年県教育委員会発行の『福島県遺跡地名表中通り編』に、「前方後円墳、弥生土器・土師器・剣を発見」と記載されています。また、近年赤く彩色された土師器の壺の破片も採集されております。
古墳と地形との関係をみると、丘陵頂上に後円部、そして頂上から南西にのびる丘陵の尾根上に前方部が築造されております。
後円部の直径は、主軸方向で約二十五メートルあります。前方部の長さは約十七メートル、幅は後円部への移行部分、先端部分とも約十三メートルで、いわゆる柄鏡形の古墳です。
古墳から採集された土師器の破片は、四世紀前半のものと考えられ、古墳の諸特色から推測される年代と矛盾しておりません。それらの点から、傾城壇古墳は、安達地方で最古の前方後円墳と考えられるだけでなく、県内最古の古墳の一つといえ、重要な古墳であり、平成九年三月二十五日付けで県指定史跡として指定されました。