教育福島0205号(1997年(H09)09月)-024page

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と音楽とともに生きてきた。

これまでに師となり、私を導いてくれた人たちとの出会いは、日々の努力の原動力となった。その素晴らしい人柄と音楽性、そして的確な助言、その一つ一つの影響は、今在る自分の糧となっている。

その中の一人に、ロシアの女流ピアニスト、リューボフ・チモフーエワがいる。彼女の演奏は、中学一年、大学一年、そして教師になって九年目と三度聴いた。彼女にしてみれば、二十代、三十代、四十代という人生の構築期を私は一つ一つ自分の人生の歩みとともに、かいま見てきたことになる。そして、その彼女のどの年代の演奏にも共通に感じたのが、自分がこうありたいと思う理想の演奏家を少しも裏切っていないことだ。聖母マリアのようにやさしく美しい眼差し、男性演奏家にも劣らないめりはりのあるピアノタッチ、そして何よりも語らずして聴衆に全ての喜怒哀楽や平和への祈りを音楽で伝えることのできる才能、それらは年を経るごとに充実し、さらに魅力的に輝いている。

自分より十歳年上の彼女の芸術、それは自分が求めている音楽なのだ。

そう確信しているその目標に近づくことは、自分が人間として成長することでもあり、我が夫をはじめ、我が家族、教え子たち、その他の人々とともに幸せに生きていくことでもある。

来年の一月には、三度目の大舞台を踏む計画がある。学生時代に学んだベートーベンのピアノソナタを中心に数曲弾く。

音楽は時間の芸術、一瞬のうちに次々に色彩の変わる音楽をちゅうちょすることなく展開させていく。それを大胆かつ繊細な心でいちずに演奏する。そして、その達成のためには、結局日々の努力や自分のその生き方に対する自信と誇りを持つことであり、常に理想を追い求めようとする気持ちを忘れないことである。

(塙町立塙小学校教諭)

 

大変な仕事

草野雅明

 

いよな」と話しながら、早く終わりたい一心で仕事をしていたのを覚えている。

 

学生時代にアルバイトで、合同庁舎のロッカー、本棚、机等の事務用備品の搬入をしたことがある。地下一階から地上四階まで全部階段を歩いて運ぶ、結構きつい仕事で、残業のおまけまでついた仕事であった。バイト先の会社のある方が、「俺は〇〇キロまでのものだったら一人で大丈夫だな」と話しながら、ロッカーを数人で運んでいる学生アルバイトの私たちをからかいながら重い荷物を一人で運ぶのを見て、一緒に仕事をしていたバイト仲間と「こういう仕事には就きたくないよな」と話しながら、早く終わりたい一心で仕事をしていたのを覚えている。

また、年末には、和菓子屋で新年の鏡餅を作るアルバイトがあった。この時は、大きなざるに餅米を一俵あけて流水で洗い、決められた分だけせいろに入れて重ねる仕事と、つき上がった餅を決められた重さに量って形に丸める仕事であった。一キログラムや五〇〇グラムはまだ形が大きいので多少の誤差は目立たないが、二〇〇グラムより小さくなると少しの誤差が大きさに表われてくる。また、つき上がった餅を手早く処理していかないとまとまりにくくなる。店の職人さんたちはほとんど一回で小さな鏡餅でも切り分けているのに、私は、遅く、大きさに差があり、注意されるばかりであった。当時の私にとっては、どちらのバイトもまさしく「大変な仕事」であった。

ところで、養護教育に携わるようになり、周囲の人たちから「そんな子供たち(障害児)を相手にして大変だね」と言われることがしばしばある。養護学校で子供たちと生活するなかで、私たち教師は一人一人の子供の「できる仕事」の設定に努め、子供たちはその仕事に一生懸命に取り組んでいる。そのような中で「この仕事だったら僕が一番」と言わんばかりにプライドを持って取り組む子供に時折出会うことがある。そのような子供たちと接していると、「大変な仕事」も「大変でない仕事」もなく、社会に要求されている仕事ならばどんな仕事も平等であり、大事なことは自分の仕事にやりがいを感じているかどうかということを考えさせてくれる。

同じことが「そんな子供たちうんぬん」と言われることについても言えるのではないか。障害児の教育や福祉に直接縁のない人たちにとっては「大変な仕事」であっても、そこに携わる当事者にとってはやりがいであり、当り前の仕事である。

「この仕事だったら僕が一番」

子供に負けないように励みたいものである。

(県立石川養護学校教諭)

 

 

 


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