教育福島0206号(1997年(H09)10月)-025page

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感動なきところに発展なし

小久保美穂子

 

って、自慢気に娘に手紙を書いたのだろうと、この言葉を気にも止めなかった。

 

大学卒業を目前に、社会人として旅立とうとしている時、父から一通の手紙が届いた。その手紙にこの言葉が記されてあった。ワープロが世に出始まったころで、新しい物が好きな父のことだから、早速購入したワープロを使って、自慢気に娘に手紙を書いたのだろうと、この言葉を気にも止めなかった。

スポーツクラブでインストラクターの仕事をしていた時、知人の誘いでカヌーと出合った。激流を下る競技だと知り、スポーツ好きの私の心が騒いだ。ところが、艇は思うように動いてくれない。川の流れが急で怖い。沈(転覆)して汚い水を飲み、一週間の腹痛。なんという競技なんだろう。やめてしまいたい気持ちと、一度始めたことを途中でやめたくない気持ちが葛藤した。そんな時、ある大会に出場できるチャンスがあった。練習で転覆ばかりしていた私が完漕したのだ。このうえない喜びだった。この時の感動が、カヌーから足を抜けなくしてしまったのである。

後に、念願の教師となり、初めて赴任した学校では、慣れない仕事とカヌーの両立に悩みながらも、生徒たちの応援が励みとなってがんばることができた。生徒たちからの黒板一杯の祝福は今でも忘れられない。そして、現在の学校へ。カヌー部の顧問となり、生徒を励ましながら日々の練習が力を付けてくれた。大会での成績も着々と上がり、日本選手権では念願の日本一に。そして大舞台であるふくしま国体を迎えた。町民の期待と教え子たちの応援に応えなければならない。今まで味わったことのないプレッシャーを背負い、川に出た。もう後戻りできない。心を落ち着かせレースに臨んだ。結果は三位と二位。負けて悔しいという気持ちより、なぜか大役をなし遂げた満足感の方が大きかった。教え子たちが「おめでとう」と言ってくれる。価値のある成績だった。そして、今までの苦労が喜びに変わった瞬間、大粒の涙が流れた。最高の感動だった。

指導者となった今、『感動なきところに発展なし』という言葉の意味がようやく分かった。カヌーと出合い、数々の感動が私に意欲を与え、日本一という成績ばかりでなく、人間として私を大きくしてくれた。今度は私が生徒たちに『感動』を与える番だ。カヌーを通じて、日本一の選手になってもらうだけでなく、人間として大きく成長してもらいたい。そして、私自身、あの言葉を送ってくれた父に、いつまでも感謝の気持ちを持ち続けていきたい。

(安達郡東和町立東和中学校教諭)

 

私が教師を続ける理由

大河内孝志

 

とは想像もつかないくらい成長していた。礼儀正しく素直な大人になっていた。

 

先日、教え子が結婚した。私が教壇に立って四年目になるが、初めての経験である。彼が高校を卒業したのは三年前である。高校時代の彼とは想像もつかないくらい成長していた。礼儀正しく素直な大人になっていた。

教師の仕事は、生徒が社会に出てから評価されると考える。新採用のころの理想は不安に変わり、自分は何をするために教師になったのか、思い悩む日々の中で、彼の成長ぶりは私を勇気づけてくれた。私が叱責したとき、誤ちを誤ちと理解できる生徒、逆に誤ちを理解できない生徒、そして理解していながら繰り返す生徒、さまざまである。しかし、皆、社会に出ていく。成人し、やがて親になる日がやってくる。その時、自分の子にどんな話をするのだろうか。悪いことを悪いと果たして言えるのだろうか。

教師の仕事とは、社会に出てから自分の力で生きていく力をつけさせることにあるとするならば、その責任は重い。そして重いと思うからこそ、やりがいがあるし、やらなければならないとも思うのである。しかしその一方で、自分がいなくても生徒は生徒で成長し、大人になっていくのだとも思う。ただし、教師の責任感から細かく指導していると自分で考えることをしなくなるし、生徒の自主性にまかせてばかりだと何もしない。何も言わなくても、自分で考え行動できるようにすることは大変難しい。だが、少しでもできるようになったところを見とどけて、自分が教師として存在することの意味

 

 

 


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