教育福島0207号(1997年(H09)11月)-024page
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に、より効果的な練習が要求されました。
十一月頃になると、阿武隈の山々を見るたびに岩部の堤の美しさや、長泥の七曲がり峠から見た紅葉の素晴らしさが、思い出されます。
また、冬季間には勤務時間が終わって、職員室で将棋をさしたり、碁を打ったりなどして余暇を生かし、職員同士でのコミュニケーションを図ったことも今では懐かしい一コマです。さらに生徒と職員が一体となった部活動の練習試合、大雪によるスクールバスのトラブル、厳寒期の水道管破裂による学校・住宅の水浸し事故なども懐かしい思い出です。
ところで、初めて教壇に立った時には緊張の連続で、まさに二十四の瞳ならぬ七十二の瞳が私の方を見つめていました。質問をしてもなかなか答えが返ってこなかったり、研究授業では静まりかえってしまい、教師側の一方的な授業で終わってしまったことなどが頭をよぎってきます。私の免許状は美術ですが、美術の他に三年一クラスと一年の国語も担当しました。初任研の授業も国語と美術の両方を行い、教師の話が多すぎる点やもっと生徒にわかりやすい言葉で話すこと、一時間の中で何と何を身につけさせたいのか、より焦点化して内容の充実を図る努力が必要であることなどを指導されたことが今でも思い出されます。
今思えばどれもこれも良き思い出ですが、やることなすことがすべて初めてのことで、何でも吸収しなければならないと無我夢中になって取り組んだ「初めて教員になった日々」は忘れられません。
教職の三分の二を終えた今日、今までの反省を生かしながら、初心にかえって頑張りたいと思います。
(鹿島町立鹿島中学校教諭)
「生の英語」を
大須賀心綾
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私がいわゆる「生の英語」に初めて接したのは、大学一年になってからである。中学、高校の六年間、英語は私にとって、体育と同じかそれ以上に好きな教科であり続けた。そして英語の勉強にさいた時間も、ちょっとしたものであったと思う。だが、不幸にも英語を意志伝達のため、問題解決のために使った経験が皆無であった。大学に入学して初めて受けた授業が「英会話」の授業であったのだが、この時まで私は外国人と英語で話した経験はおろか、外国人を真近で見たことさえなかった。この事実を初めて認識した時のショックは、自分は英語が得意であると勘違いしていた当時の私には甚だ大きなものであった。
高校生だった頃(つい五年前の話だが)、カリキュラムの中にオーラル・コミュニケーションという教科はなかった。高校で習った英語は、受験英語と呼ばれるもので、主に英文解釈と英文法であった。大学受験を前提として原町高校に入学したので、学校の授業は大変ありがたく、受験英語が好きになった。塾や予備校に通ったことが、私の「受験英語熱」をさらに強くした。そして「高校で受験英語を指導したい」というのが、教職を志望する重要な要因になったのである。
しかし非常に残念なことに、大学に入学して、いざコミュニケーションの道具として英語を使う場面に直面した時、私はもう一度英語を勉強しなおさなければならなかったのである。それもベクトルの全く異った勉強を。これはひどく骨が折れ、プライドが傷つけられる作業であった。また、青山学院大学は、帰国子女や海外留学経験者が相当数いた。彼らにまじって授業を受ける時、私は途方もない無力感を感じずにはいられなかった。中学、高校と寝る間も惜しんで勉強した者より、たった一年海外で生活してきた者のほうが、少なくともリスニング能力とスピーキング能力に長けていることの不条理(?)を感じずにはいられなかった。
幸運にも大学を卒業してすぐ教師になることができた。大学の時抱いた無力感を、まだはっきりと記憶している。それだけに自分の生徒には、私が感じた思いを味あわせたくない。そのために初任者の私にでもできることはと考えた時、授業の中で生徒に英語を話す場面を(たとえそれが擬似的なものであったとしても)できるだけ多く提供し、「生の英語」に触れさせ、コミュニケーションができる喜びや達成感を生徒が感じることができる環境を準備してあげることだと思うのである。勤務校には、グロリア・ホーさんというALTの先生がいらっしゃる。非常に恵まれた環境なのだが、日本人教師がALTを最大限に活用しなければ、宝の持ち腐れになってしまうのは自明である。できるだけ多くグロリア先生を教室に招きたい。そして生徒たちに「生の英語」を提供してい
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