教育福島0207号(1997年(H09)11月)-027page
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クラスケロ……助けろ、代わりに答えろということか。
「はい。答えは○○です」
「さては二人とも聞いていなかったな」
先生は笑いながら大股で近づいてきた。二発目のげんこつは私の頭の上に。ジーンと痛かった。
山形に引っ越してきて、不安な気持ちで入学した中学。はじめての数学の時間に、その先生はこんな話をした。「わたしは数学の教師をやっているが、計算は得意じゃない。買ったばかりの新車をぶつけた時もそうだった。細い道だったので、電柱までの距離をみた。車の幅もみた。ちゃんと通ったはずだったのにぶつけてしまった。自分の技術を計算に入れていなかったからだ」
小学校の授業とはちょっと違う。中学生になったんだとうれしかった。好きになれそうな先生だと思ったけれど。
まもなく、先生は「絆」というノートをやろうと提案した。生徒ひとりひとりと先生との、いわば交換日記のようなものだ。テーマは何でもいい、一行でも一ぺージでもいい。
心の曇りを晴らそうと、わたしはさっそく不満を書いた。
どきどきしながら読んだ返事は、素直に謝る内容。そして、山形弁なんかすぐわかるようになるから心配するなという励ましの言葉が書いてあった。
どんなに部活が忙しくて眠くても、毎日「絆」のノートに向かった。ざら紙をひもで綴じただけの「絆」はどんどん厚くなっていった。
先生には、結婚式に来ていただいて以来、お会いしていない。毎年、年賀状をながめては「絆」のノートのあたたかい筆跡を思い出し、なつかしさと感謝の気持ちでいっぱいになる。言葉にしなくても伝わることもあるけれど、言葉にしないと伝わらないこともある。
今度、いちばん上の子供が小学校に入学する。友達や先生といい出会いをしてほしい。
家族を連れて、先生に会いにいこうかな。
(県教育庁総務課副主査)
S子の夢の実現を願って
杉哲子
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「先生、おかげさまで教員採用試験の一次に合格しました」とS子からの弾んだ声の電話を受けたのは、九月の初旬でした。
私が長らくの中学校勤務から一転し、H小学校に勤めて四年目。その年転校生として私のクラスに来たのがS子との初めての出会いです。S子は何度か転校をしており、その度に苦労をしてきたようです。母親はH小学校で楽しくやっていけるかどうかとても心配していました。連絡ノートでご家庭に学校の様子を知らせたり、母親の心配事を一緒に考えアドバイスを伝えたりして見守ってきました。 私自身も小学生の時に転校し苦い思いをしたことがありましたので、S子には楽しいスタートをきってほしいと願うとともに、クラスの子供たちにも新しい友達を迎え、思いやりを持って接したり新風を受け入れる気持ちを持てるようにと考え学級経営に努めました。
子供たちや家庭の協力もあって、S子も伸び伸びと生活するようになり、遊び仲間も増えてきました。同時にS子の持ち味も徐々に発揮され何事にも興味・関心が強く、自分が納得するまでやり通すように変わっていく姿を頼もしく感じるようになってきました。「全校絵を描く会」では、皆が写生をしている中で、S子は水泳大会の様子を実に細かく丁寧に版画で仕上げたり、学習発表会には、自ら進んで劇のナレーターを引き受けたりして私を驚かせました。
その後、私は中学校勤務に戻り、S子も父親の転勤に伴いF市に移り住むことになりました。毎月送られてくる「ファミリー新聞」でS子が「先生」を志望していることを知りました。高校・大学と進む中で、進路がはっきりしてからは、お互いに連絡をとりあうたび学生生活のこと、社会人になるために必要なことなどどちらからともなく話すようになりました。またある時は、私のこれまでの体験やこの頃感じていることなど少しでもプラスになればと話してきました。S子もS子なりに学生の本分をわきまえ、学業に専念しながら、児童文化研究会に席を置き、人形劇や紙芝居を作り、夏休みを中
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