教育福島0207号(1997年(H09)11月)-029page

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カナダのある学校を訪れたときのこと、教室に入って先生が話し始めたとたん、さっきまでおしゃべりしていた子供たちが話し手をじっと見つめ熱心に聞き始めたのである。それは、五、六歳の小学一年生から、化粧をしてピアスをしている小学校六年生、高校生になっても同じであった。しばらくすると、それが学校だけでなく様々な集会でも全く同じであること、子供たちはそのように育てられてきていることがわかってきた。授業中のルールを守ることに対する厳しさは、日本以上だと思う。おしゃべりしていたために校長室に呼ばれる生徒は結構いるし、課題を提出しないために特別室で勉強させられている子供もいる。罰則のルールが決められていて、それに従って処罰される。ある中学校では毎日数名の生徒が停学になっていた。

この厳しさはどこからくるのだろうか。一つ考えられるのは自分の意見をはっきり述べる社会であること。そのためには相手の意見を最後まで聞かなければならない。居眠りをすることは自分にとって、おしゃべりすることは周りの人にとって、その権利を放棄あるいは奪うことになるのでそのようなルールが生まれたのだろうか。もちろん、これだけでどちらの社会が厳しいとか、礼儀正しいとか判断することはできない。なぜなら、話を聞くことには厳しいが、なにを着ようと化粧をしようとそれは親の判断になっているわけだから。

それにしても、「礼儀正しさ」を考えさせられる問題である。

(磐梯町立磐梯中学校教諭)

 

父がのこしたもの

井上智恵子

 

「お父さん、また来るね」

 

「お父さん、また来るね」

「うん」

心なしか元気のない返事。八十六歳で天寿を全うする五日程前の父との二人だけの会話。

明治生まれの父は、頑固そのものであった。小学校高学年から中学生にかけて、私は「書道」に熱中したことがある。父が満足するまで、何度も何度も書いたものである。いや、徹底して書かされたのである。オーケーがでた時の、あの、飛び上がる程の嬉しさは、今でも忘れることができない。

父は、人からの依頼に対しても、簡単には妥協をしなかった。話を十分に聞いた後、「だめだ」と断ることしばしばである。どんな人の頼みでも、できることとできないことがある。「だめなことは駄目だ」と言うのが口癖であった。

母が留守の日、私は、いつも父の背中で過ごしたものである。あの温もりは、今も記憶に鮮やかである。

また、教員になったばかりの頃、下宿への帰りを渋る私を、バイクの後ろに乗せ、何度送ってくれたことか。その時の父の背の、強くて、大きくて、そして、なんと温かかったこと。泣きじゃくりながら、おんぶされた時の背と同じ温もりを感じたものである。

今、家庭教育の重要性が叫ばれ、大きな社会問題となっている。

「みんなが持っているから」とせがまれると、つい、子供の甘えに折れてしまい、断固として「駄目」と言えない大人が多いような気がする。駄目を言えない代わりに、きまりや規則を作ってほしいと願う大人。価値観や基準があいまいになっているのが現状である。自由と規律の考え方が変わってしまったのであろうか。

 

厳父遺影

 

厳父遺影

 

自分の子供や他人の子供を叱ることがなくなった現代の社会の姿であろう。怖い人がいなくなった子供たちは、見方によっては伸び伸びとしているものの、我慢や辛抱がなく、善悪の判断ができない人間に成長している気がしてならない。

親や大人の尊厳が失われつつある。

今こそ、かつての会津藩校日新館の童子訓である什(じゆう)の捉、

「ならぬものはならぬものです」

を、会津の伝統的教育理念として、受け継いでいくべきものと思わずにはいられない。

「だめなことは駄目」と、平気で言っていた父親の言動・行動が、懐かしく思われる昨今である。

十月十八日は父の命日。頑固でも温かかった父を偲びながら−。

(会津本郷町立本郷第一小学校教諭)

 

 

 


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