教育福島0207号(1997年(H09)11月)-035page
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源氏を口語訳で楽しむ
県教育センター学習指導部長
橋本佑一郎
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古典は原文で読まなければ真に理解し味わうことができない、というのが通説になっている。確かにそれは一面では真理であろう。しかし、高校で「源氏物語」などの古典を教えてきた私自身、源氏五十四帖を原文で読み通してはいない。正直なところ、とても口語訳の助けなくして内容を理解することはできなかった。原文の深い味わいに魅了されないわけではないが、それは多くは何度も読み込むことで到達できる境地である。教師でさえ原文で読み通すことが苦業であるならば、高校生にとっての古典はおそらく英語以上に「外国語」であるに違いない。
私は原文の難解さが壁になって生徒たちが古典を遠ざけてしまうことが残念でならない。特に「源氏物語」は実に面白い作品である。一般に誤解されているような王朝の優雅な恋の物語などではない。中でも若菜上下に至ると、栄華を極めたはずの光源氏や彼に最も寵愛されたはずの紫の上の心の地獄が、さりげない表現の中に読者の背筋を凍らせるごとく描き出されてくる。風景は暗転するのである。源氏を十分読み込んだであろう寂聴の口語訳は、まさに「渾身の金字塔」である。谷崎源氏や与謝野源氏もよいが、そのわかりやすさと新しさは高校生が読むのにふさわしい。優れた口語訳は、現代にふさわしい形で古典をよみがえらせてくれる。
国際化が叫ばれ、外国語学習の重要性が強調されている。だが、日本の文化や伝統を深く理解し、日本人としての誇りを身につけることと相俟ってこそ真の国際人と言えるのだろう。私は高校の教室に古典の口語訳をもっと大胆に導入すべきであると考えている。これほど豊かな古典を、一部の研究者の占有物に留めたり、単なる受験の読解技術訓練の材料にしてはならない。自戒の気持ちを込めてそう強く思う。
本の名称:源氏物語 巻六
著者名:紫式部
(瀬戸内寂聴訳)
発行所:講談社
発行年 平成九年九月三日
笑えない「笑い」
郡山市立芳賀小学校教頭
渡邉幸典
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「笑う門には福来る」とは百人が百人とも認めるところだろう。
しかし、それが、あざけり、からかい、こき下ろしとなると、話はがぜん違ってくる。いわんや、それが子供の笑いとなれば、その百人とも眉をひそめるはずだ。
筆者は、心理学の立場から、ここ三十年の間に子供の笑いが変化してきたと問題提起する。そして、その変数としてTVのお笑い芸の変遷に鋭いメスを入れる。すべて忠実にTVから学ぶ子供たちだから。
結果はやはり三十年の栄枯盛衰を経るお笑い芸能人諸氏が、それなりの時代の必然性を旗印に登場し、模倣を誘い、笑いのためならかなりのことが許されるという免罪符をばらまくことで、子供たちの笑いを操ってきたと言い切る。
いわく、ドリフに欽ちゃん、ビートたけしなど。
三十年というと、私などの少年時代をスタートとする時の移ろいである。かくすことなく、TVのお笑いが子供たちの会話や遊びのいたるところに顔をのぞかせていた。ひげダンスやら「よい子・わるい子・ふつうの子」、物議をかもした「赤信号・みんなで 」などなど。
筆者の危倶も、子供たちの今と未来へと向かう。勧められるまま、芸としての笑いを現実へ持ち込んでしまった子供たち。「ふざけ」が笑い事では済まされない実生活。悲劇を生んでいはしまいか。
TVの功罪については、すでに両論出つくした感があるが、笑いという一点にしぼって述べられると、インパクトは強い。
三十年という括りに自分もしっかり入って笑い続けてきたという笑えない事実に、宮沢賢治の「イツモシズカニワラッテイル」理想が、やけに重くのしかかる一冊である。
本の名称:今ここに生きる子ども
子どもの笑いは変わったのか
著者名:村瀬学
発行所:滑笏g書店
発行年:一九九六年十一月七日
本コード:ISBN 四-〇〇-〇二六〇五三-七
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