教育福島0208号(1998年(H10)01月)-024page

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り変わっていないように思え、他人に教える力が自分にはないこともわかっている。

そんなことを仲間に話すと「先生だって、子供に教えるときは勉強するでしょう。お花の先生もどう生けるかを事前に勉強しているから、教えられるようになるんじゃない」なるほど、そのとおりである。資格が取れたら花材を見ただけでよい生け方が浮かんでくると、今までは思っていた。しかし、そうではないようだ。確かに私たち教師だって免許はもっているものの、教えるときは勉強しなければならない。

昨年の三月のことだった。今まで一度もお稽古を休んだことのない先生が入院され、その月の研究会ではお茶の生け方を実際に教えていただくことはできなくなってしまった。

月一回の研究会は、花材と生け方が指定されていて、当日配られた花材を生かして生ける。その後、中央から派遣された先生に評価をしていただく。三月の生け方、それはこれまであまりやったことのない「ならぶ」というものであった。

研究会を休もうかと思っている時先生から手紙をいただいた。そこには、稽古を休んでしまったことのおわびの言葉があり、生け方のポイントが図まで入れて書かれていた。「病床にありながらも、私たちのことを考えていてくださる」そう思うと、休むわけにはいかなくなった。それから、その図と何冊かの本を手掛かりに勉強が始まった。おおよその生け方は決まっているものの、最後は感覚的なもので、自分ではよいと思っていてもなかなか難しい。

当日は、味わったことのない緊張の中で行ったが、先生のおかげでいつもと同じ評価をいただいた。早速、先生を見舞い報告した。満面笑みを浮かべて私の話を聞いてくださった。

四月に入り、またいつものように先生に頼ってばかりの稽古となったが、私の心の内は、先生に対する感謝の心が以前の何倍にもふくれた。と同時に、勉強し続けることの大切さを実感した。まさに「教えること」は「学ぶこと」である。

(いわき市立小名浜第一小学校教諭)

 

今、「あいさつ」に思うこと

 

祓川保雄

 

ールバスで登校する生徒たちと顔を合わせ、「おはよう」のあいさつを交わす。

 

朝、学校へ向かう坂道で生徒たちに出会うと、生徒たちは立ち止まり、こちらを向いて会釈する。それに合わせて、車の中の私も会釈する。校舎に入ると、数人の生徒が自主的に玄関や廊下を清掃している。私は、「おはよう ご苦労様」の声をかける。校庭に出て生徒たちを迎える。徒歩やスクールバスで登校する生徒たちと顔を合わせ、「おはよう」のあいさつを交わす。

授業の始まりや終わり、給食、清掃、下校時や部活動など、一日の生活を振り返ってみると、実に多くの場面で「あいさつ」を交わしている。

「あいさつ」は、日常生活のいたるところで行われ、人と人とを結びつけ、その関係を円滑な好ましい状態に保ち、よりよい人間関係を形づくる。

その大切なあいさつを、私たちはどのような心持ちで行っているのだろうか。ともすると、毎日のあいさつが「決まりきったもの」となってしまい、その重要性を認識せずに「形だけ」となってしまっているような気がする。

先日、ある研修会で県外の先生方と話し合う機会があり、その中で、「あいさつ」が話題となった。人間関係でいろいろな問題がある学校では、生徒同士はもちろん、生徒と教師、さらには教師間でも「あいさつ」が十分に行われていないという話である。改めて「あいさつ」の重要性を痛感した。

「あいさつ」は、人と人との関係を作り出す第一歩である。その積み重ねで人間関係が作り出されていくのである。だからこそ、毎日の決まりきった「あいさつ」は、意識して心を込めていかなければならないと思う。

個人主義が強まり、自己中心的で他との関係を上手につくりだせない人間、また、自分の世界の中で満足し、それを作ろうとしない人間が増えてきている今こそ、「あいさつ」とそこに含まれるべき「気配り」や「心配り」が重要視されなければならないと思う。

いつものような日々がいつものように過ぎていく。いつもの決まりきった「あいさつ」ではあるが、その時々のありったけの心を込めて「あいさつ」をしていきたい。大人と子供の立場の違いなどは関係ない。いつでも、どこでも、だれにでも、心のこもった「あいさつ」をしていきたい。

ほんの一瞬の触れ合いではあっても、その積み重ねで心温かく楽しい人間関係が築き上げられていくのだから…。

(鮫川村立鮫川中学校教諭)

 

 

 


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