教育福島0208号(1998年(H10)01月)-025page

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一枚の写真から

 

伊藤孝俊

 

四年十月、安積郡喜久田村字廣谷原開墾に移住スと記されているのを見つけた。

 

古い写真帖を整理していた。色褪せた写真が並んでいる。中に、勲章を下げたフロックコート姿の紳士がいた。この写真自体は亡祖母から何回か見せられたことがある。寝物語に聞かされた話によると、嘘か真か剣豪荒木又右衛門の流れをくむ人らしい。関心はなかった。その写真を何気なく◆がしてみた。裏に、荒木○○○、鳥取藩士族、明治十四年十月、安積郡喜久田村字廣谷原開墾に移住スと記されているのを見つけた。

奇しくも、今年は安積開拓一二〇年目の年とか。郡山市を舞台に、様々な催し物も繰り広げられている。安積開拓というと地名にも残っている久留米藩が有名であるが、確か鳥取藩の名もあった。

席を並べているW先生に高橋哲夫著の「安積野士族開拓誌」という本を見せてもらったことを思い出し、翌日、早速その旨を話して本を拝借した。読んでみると、明治政府の士族授産の政策に応じて入植開拓した鳥取士族一団の中にその名があった。年代も一致する。当時六十九戸が移住し、困窮の中で開拓にあたったらしい。郡山から旧会津街道をとおり、磐越西線喜久田駅近くに、その開拓地があるという。

とある休日、出掛けてみた。郡山インター近くの工業団地を抜けると、別世界のように静まる田園地帯に出た。一二〇年前、安積原野に立ち夢を抱いた人々に思いを馳せた。

「移住地はこの辺りかな」とウロウロしながら消防ポンプ小屋の看板を見ると「郡山市消防隊喜久田地区隊鳥取班」とあるではないか。その後、移住士族の精神的団結と神の加護を祈って故郷鳥取から御分霊を奉祀した宇倍神社などを詣でた。鳥取藩士族の子孫という方の話を聞くこともできた。

一枚の写真によって、こんな歴史の重みを体感することができた。つい最近まで縁遠かった荒木氏が、そして、鳥取という地が、はるかなる時空を超えて命あるものとして蘇ってきている。(私は訪れたことはないが、亡祖父も鳥取生まれのため一層の思いがあった)

一枚の写真は、その後も会津藩士の入植者の子孫であるK先生を私に結び付けてくれたり、県庁文書の閲覧のために県歴史資料館へ、安積開拓官舎であった開成館へと私を誘ったりしてくれている。このままだと「道祖神の招きにあひて取りもの手につかず〜」の芭蕉よろしく鳥取砂丘で日本海の夕陽を眺める旅へと出立しそうな勢いである。まさしく、生涯学習の旅である。

(いわき教育事務所指導主事)

 

中・高研修交流を経験して

 

佐藤信常

 

未知の世界に入っていくような不安と期待の交錯する複雑な気持ちで赴任した。

 

私は平成七年度から二年間、中・高研修交流で原町第一中学校に勤務させて頂いた。以前までは中・高連携については、あまり関心を持っていなかったので、未知の世界に入っていくような不安と期待の交錯する複雑な気持ちで赴任した。

四月当初、三月に双葉高校で三年生を卒業させてきたばかりで、中学校での入学式は初めての経験であった。小学校を卒業して間もない新入生を見て、「この子供たちが成長して高校生になっていくのか」と思うと、中学校と高校はまさに一本の糸でつながっている思いがした。小学校、中学校の先生方が手塩にかけて育てた子供たちを高校で大切に育て、社会に、または上級学校へと送り出さなければならないという大きな責任を今まで以上に感じた。さらに、生徒の進路目標を達成させるためには、まず学力を伸ばす指導が中・高一貫して行われなければならないということも痛感した。

中学校では生徒一人一人のために、現職教育、T・T、習熟度別授業、補充指導などで学力の向上を図っているが、その中心となるものは、「生徒自ら学ぶ意欲を持ち、主体的に学習する力を身につけさせる」というテーマで授業を展開することであった。私は高校でもこのような授業を基盤にして、高校独自の教科の特性、専門性を生かした授業を展開していきたい。そして生徒の学力向上を常に念頭に置き、より良い進路目標達成のために

 

 

 


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