教育福島0208号(1998年(H10)01月)-043page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

思い出の凾

西会津高等学校教諭

佐藤雅通

 

『思ひ出』を思いがけず手に入れたのは、昭和六十一年の八月二十九日だった。

 

筑後柳河版の北原白秋『思ひ出』を思いがけず手に入れたのは、昭和六十一年の八月二十九日だった。

もう十二年前になる。

私の祖父は白秋の故郷柳川に程近い大牟田の生まれで、私の母を身ごもった祖母を残してフィリピン沖に沈んだ。戦争も終わりに近づいた春だったという。祖母は実家のある東京へ帰され、福島に嫁いだ姉の勧めで会津の地へ疎開し、今の祖父と再婚する。私の九州への旅は、物見遊山ではなく、本当の祖父に会うためのものだった。

終戦後、祖父は小さな板切れとなって戻ってきた。戦没者の共同墓地に立つ慰霊碑には、「軍曹」の肩書き付きで「中村司」の名がある。祖父の兄にあたる中村貞夫さんが、私の顔を見るなり、「司が帰ってきた」と泣き伏した。奥方のキクさんは、夜の十一時過ぎの訪問にも拘らず、たくさんのご馳走と酒を用意していてくれた。私は仏壇に手を合わせ、心の中で、祖父が知らない私の母の人生を、知る限り報告したのだった。

「佐藤雅通君。旅の記念に。六一・八・二十九日」裏表紙に万年筆で書かれた貞夫さんのメモは、書道家らしい達筆。白秋は祖父の好きな詩人だったという。汚れ無き幼い心が真っ直ぐに見つめた生死や愛情が残酷なまでに生々しく描かれている『思ひ出』。自分というものを考え始めたのは、自分の源流をたどるこの旅の途中で、この悲しくも生臭い詩集に出合ってからであった。

貞夫さんもキクさんも、私にとっては戸籍上の繋がりのない人たちであり、もうこの世にはいない。だが、『思ひ出』の凾を開ける度に、私の中を流れる遠い南国の血を思い起こすのだ。

 

本の名称:神西清編 北原白秋詩集

著者名:北原白秋

発行所:新潮社

発行年:一九八九年四月一日

本コード:ISBN 一一九五〇一-三

 

眠る盃

大信村立大信中学校教諭

後藤さとみ

 

秀いずる」だったのだと気付いたのは、かなりあとになってからのことである。

 

小学校の校歌に「西にひいずる那須の峰」という一節があり、おかっぱ頭だった私は大きな声で元気よく歌っていたのだったが、高学年にもなると歌詞を味わう余裕ができ、ある時にふと考えた。なぜ「西から陽が出るのか」と。きっと難しい言葉だらけの校歌のセカイには、自分たち子供には理解しがたいこともあるのだろうと納得をすることにして、その下りだけは少し小さな声で歌ったりしていたものだ。それが「秀いずる」だったのだと気付いたのは、かなりあとになってからのことである。

長い間思い込んでいたことが実は違っていて、新しい発見でもしたかのように目からうろこが落ちるということは案外よくある。

向田邦子さんのエッセイ集の中に「眠る盃」というのがある。深夜酔いつぶれて眠り込んでしまった父の飲み残しの酒が、ゆったりと重くけだるく盃の中で揺れるのを見た作者が「荒城の月」の「巡る盃」を「眠る盃」と覚えてしまったという話であるが、なかなか味のあるエピソードだと思う。

また「◆み癖」という話の「子供の時分は、爪だけではなく袂からセルロイドの下敷きまでかじっていた」という書き出しは、鉛筆の頭を噛んではボコボコにしてしまった私を喜ばせてくれた。こういうことが書けるいさぎよさもそう快だった。

私は彼女の文章のおしまいの数行が特に好きである。そこには彼女一流のなんとも言えない切なさみたいなものが漂う。浸っていたい世界から一気に解き放されて、しばらくは次のページに進めない。

描かれている時代も好きだ。俵万智さん流に言うならば「優しさをうまく表現できないことが許されている」世代の父の存在。オルゴールが鳴り終るまでに帰宅しないと叱られた子供の頃を思い出し鼻の奥の方がツンとするのだ。

 

本の名称:眠る盃

著者名:向田邦子

発行所:講談社

発行年:一九七九年十月十六日

本コード:ISBN 四-〇六-一一六三八一-七

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。