教育福島0209号(1998年(H10)02月)-026page
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に突き進むタイプ。三男は、兄たちのすべてを見習い、取捨選択して成長しているような気がします。
「紺屋の白袴」のことわざのとおり、我が子の子育てにおいて未熟な面が多く、担任の先生方にお会いするのが恥ずかしい時も多々ありますが、三人の子のそれぞれの特性を伸ばしつつ、成長を見守りたいと思っています。
このことは、クラスの子供たちにもあてはまることだと思います。
算数の問題の解き方一つをとってみても、どんどん早く解こうとする子、ゆっくり確実にやる子、何回も確かめる子など様々です。それぞれの個性が表れてきます。
早く解けることのみを求めるのではなく、確実さや十分見直すこと、また、より良い方法を考えることも大切な個性であると考えて学級の子供たちに接していきたいと思っています。子供たちそれぞれのよい面と「個性」が、十分発揮できるような学級経営に努力していますが、実際には難しいことの連続です。教職二十年になろうとしていますが、いまだ理想と現実の狭間に悩む毎日です。
(常葉町立常葉小学校教諭)
「檸檬」から
服部佳子
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高校生の頃、国語で梶井基次郎の「檸檬」を習った。主人公の男が丸善で画集を積み重ね、爆弾に見立てたレモンを置いて去る話だ。何とも奇妙な衝撃が胸を貫いたことを覚えている。
その後、大学時代に梶井基次郎を学ぶ機会があり、思い嵩じて遂に数年前、梶井が療養生活を送った伊豆湯ヶ島を訪ねた。
湯ヶ島は多雨の地である。彼の地には私雨(わたくしあめ)という言葉がある。此処ばかりが雨で、余所は降っていないことを言うらしい。雨は数分で上がる。上がると忽ちアスファルトから蒸発し、辺りは湿気に充ちる。温気と湿気が交互に訪れる気候が湯ヶ島の常であるらしい。然し湿気の程度は尋常ではない。この湿気が梶井の病を更に悪化させることになったのではないか。
渓流の辺に現在でも梶井が滞在した旅館、湯川屋が在る。渓流の底に近付くように階段を下りると、今は愛用品の陳列室になっている六畳間がある。梶井は此処で何を考え、何を見つめていたのだろう。
昭和二年、既に「檸檬」「城のある町にて」等を同人誌『青空』に発表していた梶井は、健康状態の悪化に伴い東大卒業を断念、転地療養を決意する。当時、下宿の隣室に居た友人の三好達治に自分の喀血をコップに溜め、葡萄酒だと言っておどけて見せたという。「保養といふよりもっとせっぱつまった亡命といふような」絶望的な心境だったらしいが同じ頃、伊豆に滞在して『伊豆の踊子』を執筆していた川端康成を訪ねて校正を手伝ったりしている。
梶井は湯ヶ島の自然に心打たれた。一年四ヶ月の滞在中に執筆した「冬の日」「筧の話」等、その他の昭和七年に三十一歳で夭折するまでの作品は全て、湯ヶ島の自然と時間が礎となっている。死と真正面から対峙し、限定された生の中で、梶井は己を凝視し、生命を賭して次々と作品を結晶させていったのだ。
今、国語の教師として、再び教科書で梶井基次郎に出会う度、私は初めて「檸檬」を読んだ時のことと雨に煙る湯ヶ島の情景を思い出す。そして次に自分のことを考える。教師となって数年が過ぎ、そうした自分に慣れ、惰性で日常を送っている。
生を限定されながらも、その中で自己の生を希求し続けた梶井基次郎の真摯な人生態度を思う度、私は深い自戒と羨望と憧憬が胸の内に膨らんでくるのを押さえることができない。
(福島県立白河第二高等学校教諭)
私の財産
坂本紀子
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教員生活を改めて振り返ってみますと、中学三年生を担任する機会が比較的多かったことから、本年度でざっと二百五十名の卒業生を送り出すことになります。
数年前、役所勤めの夫が友人との茶飲み話の中で、「自分が退職しても何も残らない。その点、うちの家内
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