教育福島0213号(1998年(H10)09月)-029page
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その仲間は、ホテルマン、酒造会社の社長、漆工芸会社の事務、卸売り会社の課長、私立学校の事務長、そして、教員とさまざまな職種の人間が集まっていました。
居酒屋での語らいは、いきおい会津の音楽文化論にまで発展し、「音楽大学はでたけれど、自分のふるさと公演すら開けないでいる不遇な音楽家が多い。そんな音楽家を全面的に支援しよう」という結論に達したのです。
二年前の夏に東京都と会津若松市で、「古川公一バリトンリサイタル」を、昨年の夏に会津若松市で「松本高明・江川龍二ジョイントコンサート」の二回の公演を開催することができました。
七人の実行委員が、チケットの販売からプログラムの作成、当日のステージの構成まで、およそ公演のすべての仕事を自分たちの力で、それも手弁当でこなしました。
目先の利益や名声を得るような野心は、毛頭なく、ただボランティアで職場や家族に迷惑をかけながら必死に活動を展開しました。どうにか、東京でも会津若松でも成功のうちに二回の公演を終わることができました。
これは、手前味噌にはなりますが、七人の音楽を愛する熱い情熱とそれを支える同僚や家族のおかげと感謝しています。高校時代に合唱を通じて培った先輩と後輩の絆が二十年経った現在でも生きていたことに全員が感動し、打ち上げでは自然に校歌が出ました。その歌声は、懐かしさと青春の日々のひたすらな思いや願いがいっぱいにつまっていました。
裏方に徹する。自分はスポットライトを浴びられなくても、ステージのそででそっと自分が支援する演奏に耳を傾ける無上の喜びをこのごろようやく感じることができるようになりました。
「会津演奏協会」が、今後一人でも多くの音楽家のリサイタルをそっとアシストできることを祈念します。会津の音楽文化向上のために……。
(会津若松市立城南小学校教諭)
教師として、母として
鴨田律子
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私が教師になって初めて担任をしたのが、小学一年生でした。毎日が、新しいこととの出会いや発見の連続で、先輩の先生方のまねをすることで精一杯でした。
教師という職業に憧れ、学校ではこうありたいと理想を思い描いたと同時に、「なぜ、学校で教えなければいけないのだろう。」と思うこともありました。はしの持ち方やぞうきんのしぼり方、朝は顔を洗ってから登校することや運動着のたたみ方など…。
あれから、十数年が経ちました。学校での仕事にもそれなりに慣れ、何をすべきか、自分の考えを持てるようになりました。また、私自身も母親になり、我が子が保育所や幼稚園で集団生活を送ることによって、学校に対する考え方も変わってきました。そして、いよいよ小学校へ入学し、自分が保護者の立場になってみて初めて、思い描いていた家庭の姿と現実の家庭の姿とは、随分かけ離れていることに気づきました。十分に子供と会話をしているだろうか。学校でどんなことをしてきて、帰宅後は何をして過ごしていたのだろうかなど、母親として、子供のことをどれだけ分かっているのか自問自答することがよくあります。
また、子供にとってよかれと思って話をしても、素直に聞き入れてはくれませんでした。担任の先生が話して下さったことは守らなければいけないと思っているようで何度言ってもやろうとしなかったことを、入学してからは、必ずやるようになりました。私自身も「先生の方から話をして下さい」と、保護者の方から言われたことがあります。親が我が子に教えられなくては…、と思った時もありました。しかし、同じことでも、
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