教育福島0214号(1998年(H10)07月)-017page
二 縄文時代
縄文時代の遺跡は古墳と並んで比較的早い時期から調査が行われていた。しかし、近年の大型開発によりそれに伴う発掘調査も大規模化し、これまでにない成果が挙げられている。
すなわち、三春ダムや摺上川グム関連のように一つの谷筋の遺跡をすべて発掘する調査や、大規模工業団地造成のため大規模な集落跡全体を調査するというようなものである。現在、福島市が保存のための調査を行っている宮畑遺跡は後者の計画の過程で発見されたものである。ちなみに、三内丸山(さんないまるやま)遺跡や吉野里(よしのがり)遺跡も開発の目的は異なっても同じような経過で調査されて保存に至ったものである。
−最古の土器は?−
縄文時代は約一万二千年前の旧石器時代の終わりに土器を制作したときから始まる。その土器は世界最古とされるもので、土器の表面に細い隆起線がある隆起線文土器と呼ばれるものである。
同じものは白河市高山(たかやま)遺跡、福島市愛宕原(あたごはら)遺跡・獅子内(ししうち)遺跡・南諏訪原(みなみすわはら)遺跡より出土している。縄文時代の開始を告げる資料である。
−谷間の集落の調査−
かつて縄文時代集落の地形は、主に、水場が近くにある見通しのよい南向きの台地とされてきた。しかし、近年ダム関係で山間部の谷間を調査することによりそれとは異なった景観の集落も多くあることが判明してきている。
真野ダム関連で調査を行った飯舘村岩下向(いわしたむかい)遺跡は前期集落跡で、川北側の急斜面に多くの竪穴住居が造られていた。
三春ダム関連で調査を行った三春町柴原(しばはら)遺跡は中期後半〜後期の大規模な集落跡で、福島県を中心として分布する複式炉を有する中期後半の竪穴住居群、後期の敷石住居群が検出されている。この遺跡は大滝根川の低位段丘に営なまれた遺跡で、当時は川沿いにあったものと考えられる。
また、現在調査中の摺上川ダム関連遺跡でも、摺上川北岸にある獅子内遺跡は縄文時代の初めから終わりの時期までの遺構・遺物を出土し、一時期ごとの遺構もかなりの数になる。対岸には前期初めの多数の住居跡を検出した下ノ平(しものたいら)A・D・E遺跡、後期を中心とした弓手原(ゆみてはら)A遺跡等の大規模な道跡が存在している。
三春町柴原A遺跡の敷石住居跡
このような遺跡のありかたは、これまでの縄文時代のイメージとはかなり異なるものである。しかし、縄文時代の人々は各地域の環境を利用して定住生活を営んでいたと考えると、理解することができる。
−川沿いの拠点集落−
宮畑(みやはた)遺跡は福島市内の阿武隈川東岸、岡島字宮畑に位置しており、工業団地造成計画に伴う平成六年の試掘調査で大規模なものであることが確認された。
平成九年に遺跡内の道路拡幅工事に伴う発掘調査を行ったところ、縄文時代後期の掘立て住建物跡、敷石住居跡等の多くの遺構が検出され、保存・整備について検討するため工事を中止し、今年の八月より調査を行っている。
現在の地形を見ると遺跡は阿武隈山地西裾の丘陵に接する段丘上に営まれているように見えるが、試掘の結果では遺跡と丘陵の間に河川の跡が検出されている。この河川跡は阿武隈川の旧河道と考えられている。
福島市宮畑遺跡の柱穴跡(福島市教委提供)
とすれば、宮畑遺跡は阿武隈川浴の自然提防上に営まれた大規模な集落ということになる。しかも