教育福島0214号(1998年(H10)07月)-018page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

縄文時代中期〜晩期の約二千年に及ぶ遺物が出土している。さらに大規模な作業が必要な掘立て柱建物等の存在も考慮すると、そこに定住して生活を営んでいた当時の人々の姿が想像できる。

 

三 弥生時代

 

昭和五〇〜六〇年頃には、東日本の弥生時代の始まりは西日本より遅れて中期初頭(紀元前後)といわれていたのが、それ以前の前期からであることが確認された。

その後、主として会津盆地内で弥生時代後期後半〜古墳時代初頭頃の遺跡の調査が進み、弥生時代終末の様相が明らかになってきた。それらの結果を見ると、地元と関東系の土器とともに北陸系土器が伴っている。

さらに、塩川町館ノ内(たてのうち)遺跡では弥生時代末の周溝墓(しゅうこうぼ)で四隅突出(よすみとつしゅつ)形と言われるものが検出されている。この四隅突出墓は山陰地方を中心に分布し、東は石川県まで確認されていた。その影響を受けたものが検出されたことは、弥生時代後期の会津地方と北陸が土器のみでない強い結びつきがあったことを示すものであり、古墳の成立を考える上でも重要な資料である。

いわき市平窪諸荷(もろに)遺跡では、弥生時代中期の上坑墓(どこうぼ)群、後期の方形周溝墓群が検出されている。土坑墓群の後に方形周溝墓が営なまれる例は珍しいものである。

また、福島市勝口前畑(かつくちまえはた)遺跡では勾玉制作跡が検出されている。

 

塩川町館ノ内遺跡の四隅突出形周溝墓(塩川町教委提供)

 

塩川町館ノ内遺跡の四隅突出形周溝墓(塩川町教委提供)

 

四 古墳時代

−古墳時代の開始と前期古墳−

 

古墳時代についてはめざましい調査の進展がみられた。

古墳時代の開始及び前期については特に著しいものがある。会津坂下町の杵ケ森(きねがもり)古墳は全長四五メートルの前方後円墳であるが、前方部がバチ形を呈する極めて古い形態を呈しており、東北最古の古墳である可能性もある。その近辺からは古墳時代初め頃の遺跡も多く確認されている。

三角緑神獣鏡を出土した会津若松市の会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳は全長九〇メートルの前方後円墳で、東北最古とされていたが、再測量の結果一一四メートルあることが判明した。その東の丘陵上で確認された堂ケ作山(どうがさくやま)古墳は全長八〇メーートルの前方後円墳であり、立地からしてより古い可能性もあり、付近には代々の首長の墓が築かれたものと考えられている。

中通り地方では、大玉村の傾城壇(けいせいだん)古墳が前期の前方後円墳であることが確認され、県の史跡に指定された。郡山市の大安場(おおやすば)古墳は平成三年に発見された全長八三メートルの前方後円墳で、平成八・九年の発掘調査の結果埋葬施設は粘土床を有する木棺直葬であり、ここから東北の古墳としては初の車輪石(しゃりんせき)、その他に多くの鉄製品が出土した。

これまで、前期古墳が発見されていなかった中通り地方の様相も明らかになりつつある。

浜通り地方では、原町市の国指定史跡である桜井(さくらい)古墳が活用のための整備事業が開始された。

 

大安場古墳実測図

 

大安場古墳実測図

 

−後期古墳・豪族居館等−

華やかな前期古墳の話題に隠れて地味な存在であるが後期古墳・豪族居館・祭祇遺跡等の調査も確実に進みつつある。

後期古墳では石川町大壇(おおだん)古墳群、桑折町錦木塚(にしきぎつか)古墳、保原町大泉(おおいずみ)古墳群等の調査で多くの成果が上げられている。塩川町古屋敷(ふるやしき)遺跡で周囲に二重の塀を持つ五世紀の豪族居館跡が検出されている。須賀川市上ノ代(うえのだい)遺跡、いわき市菅俣(すがまた)B遺跡でも居館跡が検出されている。郡山市正直(しょうじき)A遺跡・清水内(しみずうち)遺跡、表郷村三森(みもり)遺跡では大規模な祭祇遺構が検出された。これらについても今後の調査が期待される。

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。