教育福島0214号(1998年(H10)07月)-026page
たことがある。海外経験が浅く、飛行機が苦手な私が、一人で旅をしたということは、自信にもつながった。しかし、出国前は心中穏やかではなかった。
私が滞在した地域は、日本人がほとんどいない所だった。当時日本では、冬季オリンピックが開催されていたこともあり、出会った現地の人たちは皆、「長野から来たのかい」と、尋ねてきた。
「長野もいいけれど、私の生まれたところはもっと自然が豊かで、いいところだよ」
「えっ、長野の他にも、日本には緑がきれいなところがあるの」
私は呆気に取られた。
現地の人々の多くは、「日本」というと、東京のようにごみごみした場所ばかりだと思っているらしい。従って、長野の美しい山々を見たときは、こんなきれいなところが日本にもあるのかと、目を疑った人も少なくなかったようだ。日本のことが意外に知られていないのだと残念に思った。
オリンピックのおかげで現地の人々の日本への関心は日に日に増していった。テレビでも、日本料理の番組や、文化の紹介が毎日放映され、勿論私も質問責めにあった。しかし答えられないものもあり、家族に電話をして確認することもあった。「自国のことなのに」と恥ずかしい気持ちになった。しかし自国を見つめ直す契機にもなった。
旅行前の私は、「外国語を話す」ということを、「その言語を使う国のことを知るために、有用なものである」ととらえていた。しかし旅行後は、「自国のことを相手に伝えるために、有用なものである」
とつくづく思うようになった。また、自分たちの民族を尊ぶ多くの国の人々に触れ、私は、日本人としての誇りを持つことの大切さを改めて知らされた。
そんな私が、街で茶髪の日本人を見て思うことがある。「日本人としての象徴を、もっと大事にすれば良いのに」と。
私は、これからの時代を担う生徒たちに、日本人としての誇りを持ち、自国の文化を大切にするよう教育したいと思う。
(船引町立移中学校教諭)
石の上にも四年
熊谷弘子
教員になり今年四年目を迎えた。二年目でクラスを任されたが、生徒たちももう三年生である。振り返れば、あっという間に月日は過ぎ去っていった。
三年前の入学式、教室に入り、生徒や保護者の前で緊張で声を震わせながらあいさつしたのを覚えている。同じ時期にバレー部の顧問にもなり、全てが新しい経験の年であった。そんなわけで一年目はクラスと部活動との両立でジレンマしていた時期だったと記憶している。二年目に入り、ようやく自分なりの方針がつかめたかと思われた矢先、バレー部員との衝突。練習が厳しいと反発された。今考えればこれが生徒と真正面から向き合い、話し合った初めての経験だった。また、クラスの方も一人一人の気持ちがつかめずに自分だけがカラ回りしていた。一つくずれると全てにおいて上手く行かず、いろんな面で悩んだ年だった。余裕がなかったこともそうだが、「生徒側の視点」に気付いてやれなかったのだなと、今になれば思うのである。現状をよく理解しようとせずに、こちらの要求に答えさせようとそれだけを押しつけていたのかも知れない。話し合うことは大切なことだとつくづく感じた。
そんな過程を経て、三年目を迎えた。部活では「地区三位入賞」を目標に部員たちは頑張ってきたのである。最後の高体連地区予選、当日の彼女たちは本当にたくましかった。目標を達成させるために必死でボールを拾う姿を見て、鳥