教育福島0214号(1998年(H10)07月)-029page

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めていこうとする前向きな姿勢。情熱と実行力。授業や部活動、行事をとおして触れることができた一人一人の個性。

奇遇にも、その時の私は、ちょうど彼らの現在の年齢と同じでした。教師という仕事にも慣れ、一人よがりの妙な自信を持ち始めていました。今思えば、あのころの私は、一人一人の個性を、その子のよさとして受け入れ、認めていたか疑問です。今でこそ、子供の行動をその子の思いの表れとして、受け入れることができますが、自分の価値基準からはみ出している子を無意識に「困った子」と考えていたように思います。

目の前にいる十三年ぶりの子供たち(もう大人ですが)は、私の未熟さをさわやかに受け入れてくれていました。そして、一人一人が、皆しっかりと自分の道を見つけ、自信をつけ輝いていました。家業のはんこ屋を継ぐことになった子。自分の夢を実現させ、岡山に博物館を開館する子。身障者の野球チームのマネージャーとなり休日も休みなく飛び回っている子。一児の父となり、誇らし気に愛児の写真を見せてくれる子。皆、生き生きと話しかけてくれました。ほどよく酔いがまわったころのK君の言葉です。

「先生、俺は、これまでいろいろ経験したけど、これだけは自信を持って言えるよ。無理に自分を変える必要はないということ。俺はやっぱり俺でいいんだ」十三年がたち、一まわりも二まわりも成長した生徒たち。子供から教えられた夏の夜の再会でした。

(伊達町立伊達小学校教諭)

 

国体後に思うこと

武山聖子

 

てくれている人や応援してくれている人への恩返しのつもりで練習をしました。

 

教師の職について四年。昨年度初任地の郡山から、雪を求めて田島町に転勤してきました。これまでかなえられそうでなかなかかなえられなかった国体出場の夢を実現したかったからです。自分のことばかり考えて教師失格かもしれませんが、どうしても私は国体にこだわり、少しでも雪の近くスキー場の近くに行きたいと思いました。なぜそんなにも国体にこだわったのか自分でも不思議なくらいですが、きっと子供のころからの目標をずっとクリアできないままでいる自分が情けなかったのかもしれません。しかし、いざ転勤となると、初めて教えた子供たちとの別れや私をいつも支えてくれた保護者の方々や先生方との別れがつらく、自分の夢を絶対実現させるという決意よりも、悲しい気持ちでいっぱいでした。「先生。国体に絶対出てよ。応援してっから。新聞毎日見てっから」という言葉が、弱気になったり気持ちがゆるみそうになったりした時、私を奮起させてくれました。自分の夢を実現させるために、そしていつも支えてくれている人や応援してくれている人への恩返しのつもりで練習をしました。

そして今年一月。国体への出場が決まり、自分の長年の目標をやっとクリアすることができました。「良かったなあ。新聞見たぞ。念願の国体だなあ」という言葉をもらうたびに、これまでたくさんの人たちに支えられてきたことを感じました。国体での結果は参加するだけに終わってしまいましたが、国体に出場できて本当に良かったと思っています。

小学校から続けてきたスキーから、これまでにたくさんのことを学び感動を受けてきた今、今度は子供たちにスポーツのすばらしさを教えていきたいと思っています。子供たちが生涯にわたって楽しんだり挑戦したりできるスポーツを見付けられるように手助けをしてやりたいと思います。またスポーツに限らず、自分の夢や目標を持ち続けることの大切さやそれをかなえることの楽しさ苦しさを伝えていけたらと思っています。

 

 

 


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