教育福島0216号(1999年(H11)01月)-026page

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出の卒業式が無事終わり急いで病室に戻ると父に心から「ありがとう」と言った。父はうなずくばかりだった。卒業式に教え子から贈られたバラの花束を病室に飾ると草花を育てるのが大好きな父は喜んで眺めた。

春の到来を告げるかのような青い青い空が広がった三月二十日、私を慈しんだ父が亡くなった。

中学の教師になり十七年、同僚や友人に恵まれ、家族に助けられそして生徒に支えられ、この仕事を続けることができた。これからの時代をつくる子供たちが、命の尊さを感じ、人とのかかわりが深くなれば、もつと強くたくましく生きることができるのではないかと最近考える。子供たちに「一隅を照らす」人になってほしいという願いを込め、私もそんな教師になりたいという気持ちを忘れずに歩みたい。

(塩川町立塩川中学校教諭)

 

おしゃべりノート

 

佐藤浩子

 

「ちゃんとしゃべれるように、神社に行っておがんできました」

 

「ちゃんとしゃべれるように、神社に行っておがんできました」

数年前、中学校三年の冬休みあけ、受け持ちのクラスのA君は、「おしゃべりノート」にこう書いてきた。

現在の勤務校に赴任して着任式の時、倒れて運ばれていく生徒がいた。それが、A君との出会いである。家では話すが、学校ではまったく話さず、ただ一人首をうなだれて一日中、椅子に座っている。集会時や他人に何か言われた時、体ごとうずくまり、ついには床に倒れてしまう。本人に意識はあるが、いつまでも倒れている。彼の周囲は、彼のよだれと鼻水で水たまりができる。まわりの生徒は心得たもので、すぐ紙で拭き始める。小学校の時からそうなのだと言う生徒たちは、何かと世話をしてくれる。なぜ、こうなってしまったのかと考えるより、これからどうしたらよいのか思案の毎日だった。母親が、授業中、いきなり教室に入ってきて、彼を連れていってしまうことが三回あった。

まず、心配ならいつでも見に来て連れていってくださいと母親を安心させた。そして学級の生徒には、A君なりに努力しようとしているのだと思うと理解を求めた。父親と連絡をとり、専門家の所へ一緒に出かけた。不登校生徒よりも、困難な状況で学校に行きたくないという意思表示すらできない、ことばによる治療は難しいと言われて専門医を紹介された。貝のようなA君の心を解き放す方法はないのか悩んだ。そして、ある実践例を聞いてやってみたのが、「おしゃべりノート」である。初めは、まったく書かない。しかし、一、二か月経つと、私のことばに少し応じるようになった。それからは一文が二文になり、どんどん自分のことを書けるようになった。彼の高校進学希望もあり、今度は、話すことを毎日練習した。ついに彼の声を聞いた時、私は思わずうれしさで彼を抱きしめてしまった。まわりの人々に支えられ、努力して高校入学を果たし、無事、卒業した。

子供の可能性を信じること、学びたい、成長したい気持ちを大切にすること、そしてあきらめないこと、生徒を前にして私はいつもそう思うことにしている。

(福島市立福島第三中学校教諭)

 

研究指定校の研修主任になって

 

角井勇三

 

た私にとって、生活科は未知の教科である。生活科の授業さえもしたことがない

 

現職教育の話し合いで、平行して研究してきた社会科の研究を縮小し、小教研の生活科県大会に向け、生活科一つに絞って研究していくことになった。また、校務分掌では、卒業学年の学年主任と研修主任に任命された。双方とも、経験がなく初めての仕事である。高学年ばかり担任してきた私にとって、生活科は未知の教科である。生活科の授業さえもしたことがない

 

 

 


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