教育福島0217号(1999年(H11)02月)-029page

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なってしまいました。子供たちは、興味をもっと触ったりつついたり抱いたり自分のものにしたがります。大人なら見るだけで満足するのですが、幼い子供たちには、これがあたりまえの気持ちなのだと思います。しかし、そのことが相手にとって、どういうことなのか考える由もありません。

「生き物はかわいがってね」と言われて、どういうことがかわいがることかと考えるより、興味をもったその時に抱いたり捕まえたりして、楽しさやいとおしさを体験することで、生き物を大切にする気持ちが生まれるのではないでしょうか。また、子供たちは、蟻の巣をほじくったり蛙の足を引っ張ったりします。大人から見るとどうしてそんなことをするのかと言いたくなるようなことも、好奇心や興味のおもむくままにやってしまいます。子供たちは、疑問に思ったり感じたりしたことをそのまま行動に表すので残酷に見えるのかもしれませんが、幼い日の、その様々な体験が、生き物と仲良くなっていくきっかけや相手を思う心にもなっていくのではないでしょうか。

ハムスターの死後、子供たちは空に浮かぶ雲を見て、「あの雲に、ハムスター乗ってんだよなぁ。僕たちんとこ見てんのかなぁ」と、口にしていました。

わが家にも、間もなく二歳になる娘がいます。犬の鳴き声を聞いては、「ワンワン」と、私の手を引き、犬に近づこうとします。今芽生えた生き物への愛着の目を、人としての優しさやいたわりの心に育てていきたいと思っています。

(会津坂下町立八幡幼稚園教諭)

 

子供の笑顔

小林昭一

 

「何てすてきな笑顔なんだろう」

 

「何てすてきな笑顔なんだろう」

これは、同僚の先生と一緒にバリ島に旅行したとき、地元の子供たちの姿を見て感じたことである。

この子供たちは、フリーマーケットの中で、野菜や果物を売っている両親を手伝っていたのである。足元を見れば、みんなはだし。ボロボロのビーチサンダルを履いている子は、まだいい方であった。

そんな子供たちの笑顔が、なぜ私たちの気持ちをとらえたのだろうか。それは、その子供たちの中に、自分たちの子供時代の姿を見つけたからだと思う。

しきしのあたった服を着た自分。学校までの遠い道をてくてくと歩いている自分。風呂炊きや子守りをしている自分。あのころのいろんな自分が、時と場所を異にしたバリの子供たちの姿と重なったのである。

その共通点とは、お互い裕福ではないが、心が豊かで、希望がいっぱいつまっていたことだと思う。学校が終われば、まっ赤な夕焼けと虫の声やお寺の鐘の音を合図に家へ帰る。家ではお帰りなさいの声とおいしそうな味噌汁の匂いが迎えてくれる。代り映えはしないが、最高においしい手作りの夕食と家族の団らん。あとは風呂に入って寝るだけの生活。

毎日が同じことの繰り返しなのに、毎日がとても新鮮で次の日のくるのが楽しみでならなかったあのころ。きっと、親子のつながりや地域とのつながり、年齢の違う友達や自然とのつながりが強かったからだと思う。

それができたのは、大人にも子供にも余裕があったからだと思う。宿題や塾、部活やテレビゲームに振り回されず、自分から自然や大人に働きかける余裕があったからこそ、充実した生活に感じられたのではないだろうか。

第十五期中央教育審議会「審議のまとめ」において、「ゆとり」の中で「生きる力」を育むことの重要性が指摘された。

これからの私は、子供たちの「ゆとり」の確保と、自分の人間としての「ゆとり」の創造をめざしていきたい。そして、日本の子供たちの顔にあのバリ島の子供たちの笑顔が取り戻されるように努力していきたいと考える今日このごろである。

(飯舘村立飯樋小学校教諭)

 

 

 


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