教育福島0220号(1999年(H11)7・8月号)-034/52page

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心に残る一冊の本

心に残る一冊の本


学び続けることの大切さ

原町市立石神中学校教頭

井上 恭一

 井上恭一

今から十五年ぐらい前に読み、その後も時々読み返している本がある。

当時教職に就いて六年目だった私は、国語の授業をどのように進めたらよいかという大きな壁にぶつかり、悩んでいた。その時、偶然手にしたのが、「国語授業と集団の指導」という本であった。 

この本は、「授業のスタイル」「教師の発問」「学習のしくみと方法」「教材分析と授業」という四章から構成されており、どの章も、勉強不足の私には、驚きと感動を与えてくれた。そして、このような授業を創造した著者の実践に感嘆し、私もできる部分から授業を変革しようと、ささやかながら試みたのである。

著者の足元にも及ばない、未熟な実践ではあったが、生徒が自分の五感や生活体験をぶつけながら文章を読み、学習課題を発見することなど、試行錯誤しながら取り組んだ記憶がある。

ところで、著者はこの本の中で「教師の説明を聞くということを言葉で教えることはできない。それは、教師が、本当に聞かせることができるような説明をすることが大切である」と述べている。確かに、このような自覚を教師が持っていれば、生徒にもしっかりと聞くこと、学習することを要求できるのだと思う。さらに、この自覚は、発問や課題づくりにおいても同様に必要と思われる。

この本を契機に、「本当に生徒が考えるに値する発問なのか。生徒が解決するに値する課題なのだろうか」という自問は、その後の私の継続した課題となり、授業の難しさを痛感させ続けている。

この本に出会ってから、筆者の一連の著作を読んだり、別の著者の本を読んだりするようになったが、教師として、読むことの必要性、学び続けることの大切さを教えてくれた原点として、忘れられない一冊となっている。

本の名称:国語授業と集団の指導
著者名:大西忠治
発行所:明治図書出版
発行年:1982年6月
本コード:ISBN4-18-365040-2


砂に埋もれて

喜多方女子高等学校教諭

若松 知美

若松知美

燕京号は神戸から三日かけて天津の港に着く。私が二晩過ごした二等客室は二段ベッドが四つの八人部屋。その中で私と一人の大柄な白人女性以外は中国語を話す人々。私は誰とも満足にコミュニケーションがとれない。

大学二年の夏だった。サークルの仲間五人と一緒だったが、異性の彼らは別の客室。友達とはいえ四六時中共に過ごす程には打ち解けられない。私は専らベッドに横になり、カーテンをひいてどうにか耳慣れない言葉の渦から自分を隔離し、本を読むか眠るかばかりしていた。その際、同行した友人の一人から借りて読んだのが「砂の女」だった。

絶え間なく降り積もる砂に埋もれる家の中で男が感じる苛立ち、けだるさ。己の意思が相手に伝わらないもどかしさ、孤独感。男の苦渋の叫びはそのまま、こうして狭い空間で息をひそめている私自身の叫びとなり、それはやがてもっと広い意味での自分の状況のどうしょうもなさ―希望の大学に入ったもののやたらに多い学生の数と、その個々の持つエネルギーの大きさに圧倒されて、いっかはこの閉塞感を打破するんだとは思いながらもその術を見出せず、流されて日々を惰性で送っている己の姿―にまで思いがつながってしまうのだった。

脱出を幾度も試みながらいつしか砂に埋もれた生活に愛着する兆しを見せる男の姿に失望とやりきれなさを覚え、目を閉じた。

この本を貸してくれた友人は翌年の二月にぜんそくの発作で死んだ。諸々の儀式を終えてひと息ついた頃、彼の母親が形見分けだと言って彼の本やCDを大量に、サークルの溜り場となっている大学ラウンジに置いていった。その中にはあの「砂の女」もあったような気もするが、私はそれらのどの本にも手をつけることはできなかった。

本の名称:砂の女
著者名:安部公房
発行所:新潮社
発行年:1981年2月25日
本コード:ISBN4-10-112115-X


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