教育福島0221号(1999年(H11)9月号)-024/52page
私は、中学校時代がとても楽しかった。かぜをひいても休もうとは思わなかった。中学三年生の頃中学校の先生になりたいと思った。教師になることができ、早く母校にもどりたいという気持ちがあった。運よく七年目でもどることができ、現在母校で七年目である。今年の修学旅行では、中学三年生のとき担任をしていただいた、現在の校長先生と同じバスに乗り、昔を懐かしく思い起こすことができた。今は、中学校時代にお世話になった先生方と、同じ職場で働けるうれしさがある。今年度は、県中体連バドミントン競技の総務委員長、全国算数・数学教育研究(秋田)大会の発表などがあり、忙しさを感じる毎日である。しかし、学級へ行き、生徒たちの笑顔を見ると心が安らぐ。部活動へ行き、生き生きとプレーする生徒の姿を見るとやる気がわいてくる。生徒たちと接していると、教師になれて本当に良かったとつくづく思う。教師という夢を持たせてくれた恩師の方々に、とても感謝している。
私の学級で、保母さんになりたいという生徒が三人いるが、中学校の先生になりたいという生徒も一人いる。教えた生徒の中から、中学校の教師になりたいという生徒がさらにでたなら、やはりうれしい。同じ職場で働くことになったなら、きっと楽しくなることだろう。
子供たちに夢を持たせ、夢に近づくよう援助できるのが教師だと思う。素晴らしい職業である。
現在、生徒指導上の問題が多く取り上げられる。人に迷惑をかけない心、人を思いやる心を育成し、そして、人と人とのつながりを大切にしながら、みんなが楽しくなるようなことを考え、実践していきたい。子供たちが、様々な職業を選んだにせよ、「中学生のときは楽しかった」と言えるようになってほしい。これからも、生徒たちに夢を与えることができる教師を目指していきたい。
(石川町立石川中学校教諭)
子育てに思う
佐久問一枝
ヘ?は亡き息子慶一が小学校四年生の秋頃のことです。体がぴくんと硬直し、後ろに倒れてしまうミオクロニーというてんかんの発作が頻発していました。保護帽を着用していましたが、急に起こる発作に対応しきれず、頭には、たんこぶがいくつもあり、顔や背中なども打ち身だらけでした。発作は一日に数十回あり、担任の先生も家族も緊張の連続でした。ガタン、バタンという物音の方へ駆けつけると、慶一が倒れていて、痛さに泣いていました。抱き起こすたびに胸がつまる思いでした。私は心身共にすり減っていました。
そんな時期、慶一は遠足への参加を希望し、担任との話し合いから保護者同伴で参加することになりました。見学先は南部浄化センターでした。慶一が発作で倒れないようにと周りに女子三人が両脇と後ろを囲むように付き添っていました。私の目には前を歩く子供たちの姿が見えないほど涙があふれました。
クラス担任は、小宅なおみ先生。三年、四年とお世話になりました。
先生は、てんかん発作の子を受け持つのは初めてでしたが、特別な連絡帳をつくり、家庭との連携を密にしながら一生懸命指導してくださいました。
慶一のこの二年間は、心身のバランスが崩れ、心の葛藤があり、学校へ行きたくないと言ったり、教室を飛び出すなどのトラブルも多く引き起こした時期でした。あるとき、「どうしたらいいでしょうか」と言って流された先生の涙に、誠意と優しさを感じました。今も感謝の気持ちでいっぱいです。
子育ては答えのない、終わりのない大仕事です。自分の生き方そのものです。しぐさや声かけ一つでさえ生き方から発するもので、