教育福島0222号(1999年(H11)10月号)-026/52page
ることを忘れて」の言葉が重くのしかかり、戸惑ってしまった。この結果、のどが渇けばジュース販売機の前に列を作り、消灯時間は形骸化し、ゲームコーナーに出没するといった行動がでてきた。宿泊訓練との違いに戸惑い、早々寝てしまうことにした。次の日、朝のあいさつに返事さえ返ってこない。これまでの学校教育の無力感を感じてしまったのも事実である。あいさつの指導だけは徹底したいと思い、夜の打ち合わせで話してみた。意外に簡単に受け入れていただき「教師であることを忘れて」という言葉から少し解き放たれたように感じた。さらに、お世話役の方の「自分が楽しまなければ子供たちを楽しませることはできない」という言葉に励まされ、何か自分で自分を締め付けていたものから解き放たれたようにも感じた。
次の日から、子供たちに何かをつかんでほしいという気負いをやめた。そして、他の学校から参加してる子供たちやお世話役の人たちとの触れ合い、そして、自分が担任する子供たちの新たな一面との出会いを楽しむことにした。
このスクールで私が得たことは、飯舘村には子供たちの成長を真剣に考える大人がたくさんいると言う事実である。そして、その人々と知り合いになれたことである。
スクールが終わった現在、多くの人と触れ合うことの楽しさを私自身が感じながら行動し、子供たちにその姿を見せることが私の役割だったのだと思えるようになった。重要なことは、子供たちに対してどのような意図を持って教育しようとするかではなく、どのような生き方をしながら子供たちの隣に存在するかではないかと考えることができるようになった。このスクールのすべての出会いに感謝したい。
(飯館村立草野小学校教諭)
私の非常持ち出し品
薄井洋子
一、アルバム
一、父母が語った戦争体験テープ
一、教職年表フロッピー
昨年の集中豪雨の際、私の住んでいる地域にも避難勧告が出された。それは、夕方遅く勤務先にかかってきた長女からのうろたえた電話で知らされたのである。
「あのね、裏山が危ないからすぐに避難するようにって!」
家に戻ると、二人の娘はすでにいなかった。実家の父が迎えに来たとのこと。私は家に入り、長靴のまま階段を上って現金と貯金通帳だけを持ち、実家へと向かった。
二日後、荷物を取りに家に戻った。周りの家々の窓や戸は閉ざされたまま。道行く人の姿や車の往来もなく、まるでゴーストタウン。
「家はなくなっても、ま、いいか」私は、手早く〈非常持ち出し品〉と着替えを車に積み込んだ。
【アルバム】
阪神大震災の罹災者の言葉で、「亡くなった家族の写真が一枚もないのが切ない」という記事を読んだ覚えがある。写真は家族の歴史の証。この夏、私は、膨大な数の写真を整理し終えたばかりであった。学校の子供たちの写真も、私の大切な財産である。子供たちにカメラを向けるのが楽しくて、事あるごとに撮ってきたものがポケットアルバムで100余冊。
【戦争体験カセットテープ】
五年前の八月、両親と夕食を共にした後、父がトラック島にいたときのことを話し始めた。父の生き延び作戦の話(実際には大変な体験)を身振り手振りでおもしろおかしく孫娘たちに語るその声を、そして、兵隊さんの悲しい姿や当時のバカバカしい行動の数々を語る母の声を残しておきたいと思った。私にとって一番身近な戦争体験者も、だいぶ年をとってきた。
【教職年表】
昨年、写真の整理をしているうちに、「私は、いつ、どこで、どんな人たちと出会ってきたのだろうか」と気になりだした。年表にま