第2回全国研究集会報告書-049/60page
かわるものです。最近十年間における教育改革の諸提言は,教基法の精神を踏まえ,戦後教育がめざした人間教育の潮流に位置づけてこそ,その意義が明らかになると思います。自己教育力の育成にしても,個性重視の原則にしても,それらは「人間とはいかなるものか」,「人間の生き方はどうあるべきか」といった人間尊重の追究にほかならないと思います。表現はちがっていても根源は同じなのです。そしてこのことは,自分自身に対して,どのような自己像(人間像)を描くか,その形成にどう立向うかに帰結すると思うのです。
自己像を描くには,幾つかの与件がありましょう。その一つは「斯くあるべき自己,斯くあらねばならぬ自己」で,これはいわば「期待される自己像」です。しかし期待される自己像は,必ずしも「斯くありたい自己」つまり「願望する自己像」とは一致しませんし,また「斯くある自己」つまり「現実的存在としての自己像」とも隔たりがありましょう。それだから向上への意欲やバイタリティも生まれるわけです。
もう少し「斯くある自己」について考えてみますと,現実的存在である自分は,自分の意思において生まれたのではない「被造者としての自己」であり,生物的にみれば「有限の生命体としての自己」なのです。また,ひと・もの・こと・との諸々の関係を持つ「関係的存在としての自己」であり,代替者のない唯一的な存在としての「独自的・絶対的な自己」なのです。個性の本質とはこのようなものを指すのではないでしょうか。
さらにいえば,斯くある自己は揺れ動く自己であって,常に変化しつつ形成と更新を繰り返す存在といえるのです。世阿弥は,芸道修練の一つの心得として,自己を自己として内から見る『我見の見』と,自己を観客の立場に置いて外から他己として見る『離見の見』を説いておりますが,この自己省察による形成と更新のいとなみによって,人間的成長がもたらされるのです。私がいう自己像の形成とは,このようなことを指しております。
ところで,子どもの「自己像の形成」の鍵になるものとして「モデリング」の問題があります。最近,教師は子どもからも親からもあまり信頼されていない,といった報道が目につきがちです。どうしてなのでしょうか。私は,これは子ども達のモデリングが変化したからだと考えています。以前は,子ども達のモデリングは垂直型でしたから,スキーの上手な先生,歌のうまい先生,絵のうまい先生,字の上手な先生など,先生が子ども達の憧れの対象になって,先生のようにやってみたい,なりたいというモデルになりました。つまり「威光模倣」が生じやすかったのです。また,先生の人柄や言動から直接学びとるといった「所与性の認識」も行われたのです。しかし現在の子ども達のモデリングは水平型になっていますから,権威あるものよりは,真似やすいもの,同じレベルのものにモデルを求めるのです。
トインビーは,「人間の多種多様な天賦の才は,潜在する力であって,刺激され,促され,励まされ,訓練され,実際に使われる機会が与えられないかぎり,有効な実体とはならない。」といっていますが,私はここに教育の原点があると思うのです。子どもの可能性を教育の視点からどう開花させるかが,個性を生かすことともかかわって,実践すべき課題となるのではないでしょうか。
また,今日なぜ個性の重視が唱えられるのかについても吟味を要すると思います。臨教審の審議過程において,学校教育の画一性が強く指摘され,この画一性を打破するということとかかわって個性重視の原則が強調されたのですが,日本の学校教育は,明治維新後における日本社会の近代化