第2回全国研究集会報告書-050/60page
のために発足したといってもよいのですから,国民の知識の水準,教育程度を等しく高めることをねらったのです。均質化は悪ではなくて望ましいことだったのです。個性を無視したわけではないでしょうが,大勢としてはどの子も同じレベルにしょうと努めてきたのです。このような教育か社会の進展に果した役割は大きなものがあったのです。しかしこれからの教育においても,これてよいのかどうか,新しい時代の教育に必要なものは何なのか,これまでの教育の成果を継承しながら,どのような教育を創造すべきなのか,こうした点を吟味しなければならないのです。
昭和53年の教課審答申では,個性への配慮として「応個応能」が強調されました。いわゆる学習指導における個別化が唱道されたのです。第13期中教審の審議経過報告では,自己教育力の育成と表裏をなす形で「個性の伸長」が力説されました。さらに臨教審答申においては,画一化教育の打破をねらって「個性重視の原則」が打ち出されたのです。こうした一連の経過から私たちは何を察知すべきなのでしょうか。実践的な課題の解決に当っては,まず現実を直視することが大事なのです。そのためにも課題が生じた背景を探らなければなりません。そして,何のため,誰のために,どう実践すべきかを明確にしなければならないのです。
ところで,いま,学校教育の改善点を挙げてみよ,といわれるならば,私は,第1に「人権意識の高揚と人格形成の調和をはかる」ことを取りあげます。私たちは,日本国憲法の保障する基本的人権をとても大事なものとしています。しかし,人間教育の立場からすれば,教基法の「自他の敬愛と協力」を忘れてはならないのです。人権意識の高揚をはかることは,人間教育の核となるものですが,仏典に示された「自他不二」の心を持つことがなく,人権だけが独走してしまいますと,自分主義・利己主義におちいるおそれが生じます。
ソニー名誉会長の井深大さんは,著書『あと半分の教育』で,「これまでの日本の教育は,知的教育という“半分の教育”しか追求してこず,心の教育あるいは人間性教育としての人間づくりという“あと半分の教育”を置き忘れてきた。人間を中心にした“人間のあり方”を教える,そういう教育の理念と方法を打ち立てていかなければならない責任が,日本にあるのではないか。」と書いていますが,みなさんはどうお考えになるでしょうか。
第2点は「教育における知識と行為の合一をはかる」ということです。荀子は,「聞かざるは聞くにしかず,聞くは見るにしかず,見るは知るにしかず,知るは行なうにしかず。学は行なうに至りて止む。行なわば明らかなり」と説いていますが,知識は行為に結びついてこそ生きるのです、いまの教育では,この点が弱いように思うのですがどうでしょうか。
第3は「教育指導における付加と喪失の両面を検討する」ことです。いま,学校は実に多くのものを抱えこみすぎています。わが国の学校教育は付加することに傾斜しすぎて,子どもが喪失しつつあるものに目が届かぬように思われます。一時強調された『教育内容の精選』はどうなってしまったのでしょうか。いま子ども達の感性,ものごとについての感受性はどうなっているのでしょうか。私には,学校教育が子どものみずみずしい感性を枯らしているように思えるのです。子どもの生活を歪め,子どもらしさを疎外し喪失させるものに,もっと目を注ぐべきではないでしょうか。
第4は「学校生活における個と集団とのかかわりを検討する」ことです。個は孤ならずで,人間は文字通り「じんかん」なのです。つまり集団において存在するのです。個性もまた人間関係において自覚され形成させるのです。儒学においては「五講四美」ということが重視されますが,講は