福島県教育センター所報 第5号(S47/1972.3) -022/025page
など)
(2) その校の教育的事項だけでなく郡下あるいは全県的な教育上の諸問題まで記載のおよぶもの。たとえば,
[1]学校関係者の巡視時の演説内容,講評・指導,[2]県・郡の通達,県・郡への上申,[3]県・郡の教育会の事業(または活動状況),[4]教員異動とそれに関する辞令,俸給等,[4]試験の結果だけでなく,実施状況まで記述しているもの。 (3) 設立当初の状況が詳細であるもの。
設立に至るまでの経緯,教員採用の実情,就学督励,教科書,起業・退校・休校等の規定,教授法など。 (4) 編年史的な構成だが,関係事項がよく整理,記録されているもの。
(例,明6.2若松県布告第32号ハ,教育ノ必要ヲ説キ,設置・建築ノ方法ト授業ノ方法トヲ示セリ,明6.7若松県士族上島良蔵小助教試補拝命,月給金五円ヲ支給セラル,明6.10試験ヲ施行ス(以下賂)) (5) 教育の組織を理解するのに役立つもの。
[1]通学区の問題での紛糾から分校設立までの経過の中で・戸長,学区取締,区長,郡長等への建言・交渉そして発足と,そのプロセスにおける苦労や成功の喜びがくわしく記録されているもの。[2]補習科,温習科の設置・認可等をめぐる問題等。 (6) 教授法の変遷,滲透過程がわかるもの
[1]教員講習会,[2]棚倉校会場に初の唱歌講習会が行なわれたこと,あるいは,三校連合運動会が父兄の奉仕によって完成した運動場で開催されたことなど地方への滲透過程のようすがわかるもの,[3]学級編制試験,生徒操行査定細則とその具体的な徳目などの見られるもの。 (7) 儀式等の状況をくわしく記述しているもの。
[1]開校式,卒業式,御真影奉迎式,[2]通俗幻燈会,教育品展覧会およびその出品目録 8. おわりに
学制頒布は明治5年8月3日であるが,県内小学校では,5年創立15校,6年は274校にものぼる。こうした学校の中には,「学校史」「記念誌」等の編集計画のもとに,学校沿革誌をはじめとする資料の解析,採訪にあたっているようである。この際,明治期の県庁文書(各校の校舎校地の図面,設立設置伺等,教員数,校医報告,就学旗その他)や県教育会雑誌(施設経営,教授訓練など)等についても調査され,自校関係史料を収集・整備しておくことも重要である。
研修講座に参加して
会津若松市立行仁小学校
江花 旭今回はからずも学校経営研修講座に参加する機会に恵まれて,学生時代に行ったリンゴ畑の記憶をたどりながら二十数年振りで瀬上町を訪れた。途中その変りように驚きながら……。
教育センターは,開所して間もないと聞いていたが,外見は誠に殺風景で周囲の環境も整備されてはいない。ただ,一歩所内に入って驚いたことは施設設備のすばらしさである。東北一をほこる最新の設備を持つ,まさに教育研究の殿堂である。たまたま9月末長野県教育センターを視察する機会を得たが,その折むこうの所員の先生のお話でも福島県の教育センターはすばらしいと強調されていたことを思い出す。その一つ一つをあげることはできないが,やがてこのセンターが福島県の教育発展の文字通りのセンターになることを信じて疑わない。
午前9時より午後5時までの日程の中で,暫く振りに学生時代を思いおこしながら身も心も洗われるような新鮮な気分にひたった。講座も直接教育の問題のみにとどまらず多方面にわたり,日頃一つの枠の中での生活にあけくれているわれわれにとって視野を広めることができると共に,自已をそして教育の姿を客観的な第3者の立場でながめることのできる機会でもあった。
こうした機会が与えられたことを心から感謝すると同時に,できるだけ多くの先生方にこうした機会の与えられることをのぞんでやまない。
所員の先生方のご苦労もまたたいへんであろうと推察される。夜遅くまで研修生の為に宿舎に出かけ指導される姿には,本当に頭のさがる思いである。
宿舎も申し分なく,従業員も感じがよいし,清潔で一室に4名,県内各地域の同じ仲間がそれぞれの学校の実践の姿,問題点や悩みを語りあえるのも大きな楽しみであり,この研修の大きな収穫でもあった。
宿泊施設のある研修施設は,長い間県下教職員の待ち望んでいたことではないだろうか。その夢は実現した。
この教育センターの限りない発展を祈ると共に,その利用について全県下の先生方も考えるべき時ではないかと思う。それにつけても,誰でもが気軽に訪れ相談し研究できる施設であることは,本当にありがたいことである。
さらに将来の問題として望みたいことは,会津,県南,浜の三方部に分館を設置されて,その機能が遺憾なく発揮できるようにされるよう当局の方々に強く要望したい。