福島県教育センター所報ふくしま No.7(S47/1972.8) -005/025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

   真筆道本源唱祖張堂寂俊

                   研究・相談部 伊藤武司

 1. はじめに

 教育内容,方法に関する研究の資料提供ということで「芸術科書道」の執筆を依頼された時,電光石火頭にひらめいたのは龍禅子のことであった。

 本県の生んだ「書聖龍禅」の名を知らない人があまりにも多いのを残念に思っていたからである。勿論門人二瓶喜代美氏,大日本龍禅会員,菊地喜氏など研究家もかなりいるはずである。それにもかかわらず,龍禅子没してから25年のいま,発表の場も閉ざされたままである。これを憂えて,いま県書研本部では,毎週火曜日の夜福島大学において本格的に龍禅子の研究にとりくんでいる。

 本県における小・中・高等学校の書写書道の担当者が現職教育として龍禅子をとりあげた時の参考資料として役立てば幸いである。

 2. 張堂寂俊

 福島県伊達郡飯野村の生まれ。姓は張堂,名は寂俊,龍禅または大龍と号した。愛統閣は斎名である。明治24年4月,川俣町大圓寺寂栄阿闇梨について得度され,明治31年9月,須賀川町妙林寺に住し後,叡山に入る際,入木道第45世の道統をついでおられた北泉藻誉上人についてその口秘を授けられたという。ときに明治40年12月龍禅子32才であった。

 以来龍禅子は,高山に登り,大海に臨み,神社に参籠し,仏閣に祈誓し,諾芸の達人,名流を訪ねいやしくも筆道に適用できるものはこれをとり入れたという。また文字をもって衆生を救うことができるとし,文字即如来であるとし,自己の体得した境涯をもとにして,多くの悪筆家を救うことを発願した。大正2年12月,17日間宇佐八幡に参籠して満願の暁,ここにはじめて感応し信仰上の安身と真筆道本源筆禅一致の法を開き,人心霊化,国家厳浄の大誓願をたてられたという。

 龍禅子の書は,古今独歩,真,草,行,篆,隷衆妙を一心に会して,手に随って万化し,殊に龍禅子の創案によるかなの如きはきびしいまでの気品のあるすぐれた美しさがあり筆舌につくせるものではない。その各態各様の書は,大正・今上の両陛下のご聖覧をいただき,ことばを賜わっている。

 3. 真筆道本源

(1) 筆禅一致の書道

  「筆道本源」とは,もと書博土賀茂司直が霊元天皇に奉った入木道の奥義を論じた書論であるが,これに「真」の字を冠して「真筆道本源」の法門を新たに開悠かれ,筆禅一致を説かれたのである。

(2) 入木道の正統

  元来,筆道は後漢の 漢語 にはじまり,王義之に伝わり,虞世南,著遂良,欧陽筍,顔真郷を経て韓方明に相承された時,空海がその奥そこを極め,帰朝後は本朝相承の大祖となり以来嵯峨天皇,佐理,行成を経て永く皇室が保護され歴代書博士が伝承された。しかし明治維新の際この書博士が廃絶になったのは惜しい限りである。龍禅子は,空海以来正統をうけついでいる入木道第46世である。

(3) 書道か書体か

  今日,高等学校で行なわれている書道は,書写能カを高め,表現する喜ぴを得させるとともに,書の鑑賞力を養い,書を愛好し書の発展につとめる態度を養うことになっている。しかも芸術文化に対する理解を深め,情操を豊かにして,書を生活に生かされるようにすることを目標にしている。

  世間で行なわれている書道は,拓本や手本によってひたすら書体を学んでいるにすぎないことが多い。

  それだけでは書道とはいえない。道は師について猿特の教授法(子弟の筆管をとって指導する)により上達しその妙奥に達することができるのではなかろうか。

(4) 及門一万余人

  龍禅子の門人は,円本全土にひろがり,朝鮮,満洲に及びその数一万余人という。

  名流,名門のひと多く犬養毅,平沼騏一郎,近衛文磨などの重臣,白川義則,大村純英,村岡長太郎,高山弘道,柚原完造,大野豊四郎,梅津美次郎,高橋三吉,中村亀三郎,監幸一,今村直次などの陸海空軍の将軍,護国寺貫主(佐々木教純)本隆寺管長(西澤日厳)その他貴族院議員,侍医,大学教授などすばらしい人たちの集まりであった。

(5) 予言「百年後復活」

  しかし「龍禅の前に龍禅なく龍禅の後に龍禅なし」といわれるこの相承は47世をもって終った。龍禅子は「真筆道本源は理解しがたく1時衰退するが,私の死後百年に必ず復活する。」と予言された。福島県には,門入として直接手をとられて指導を受けた二瓶喜代美親子がいてその真跡をたくさんもっていることは幸甚


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。