福島県教育センター所報ふくしま No.12(S48/1973.8) -002/025page
探究的に学習をすすめるための研究
中・高共通教材 韻文教材の読解,鑑賞の一手段
――比較学習の実践――第1研修部 吉 田 弥
I 国語科学習指導における比較学習
国語教室の中で,教師が,文章を解説していく身がまえのなかで,断片的な質問をし,その質問に,優秀な少人数の生徒が反応する形で,学習を進めていく授業風景を見て,思考というものが没却されていると指摘されて久しい歳月が経過した。
国語科学習指導の根幹に思考力の育成が位置づけられ,「主体的な学習」とか「思考する学習」の主張は,はなばなしいものがある。
ところで,某社の哲学辞典によれば,<われわれが,なんらかの形で,課題解決を要求されるような状況に当面し,しかも,それを習慣的手段によって解決しえないような場合には,手段の探索が行なわれ,その変形が生じ,あるいは,手段体系の新しい構成が生ずる。このような課題状況に対処する精神機能を思考という。>と思考をとらえている。
上述の内容を分折すると,思考という活動は,単一的活動ではなく,学習の内容や,学習の過程のなかで,理解,比較,推理,仮定などの多様な活動を含んでいる。
「古文学習指導と思考力」という論文のなかの,増淵氏の所説によれば,氏は,ウシンスキーの<外界の何かの事物を明瞭に理解したいと思うなら,その事物を,それにもっとも類似したものから区別し,また,その事実の中に,それとは,もっとも関係の薄いと思われるものと,類似している点とを見いだすようにするのがよい。そうすることによってのみ,事実のすべての本質的特徴を明らかにすることができる。>との説をうけ,<以上の観点に立って,二つ以上の事物や現象を比べ合わせ,その間に共通する類似点,または,互いに矛盾し,反発しあう相違点を明らかにすることは,事実や現実に対する認識を深め,豊かで明晰な概念を形成するには欠くことのできぬ思考の根本形式である。>と主張され,比較学習こそ,教授法の中の基本的方法であると論じられている。
私は,上述の氏の見解にのっとって,古典の韻文教材の学習指導での比較学習の実践例を示したい。
言うまでもなく,俳句,和歌という短詩型の文学では,その表現世界が制約されるのは当然で,その学習の手だてにも困難がつきまとう。その対策として,例えば,一短詩型の作品を教材として学習する場合,類似,異質の他教材との比較という学習によって,教材に対する理解,鑑賞の深まりをねらおうとするものである。扱った教材は,中学校,高等学校の古典教材の中にとりあげられている,代表的な作品である。
II 芭蕉の俳句における実践
(1)「道のべの」の句の場合
道のべの木槿は馬にくはれけり(甲子吟行)
この句は,「野ざらし紀行」中の吟。大井川の条と小夜の中山の中間に記してあるが,句体は,当時の吟としてめずらしく平明で,一応の句意についても紛れるところがない。それだけ,この句の本質をとらえることは困難である。この句の世界を,より鮮明なものにする学習の比較教材として,次の三つの作品を参考とする。
道の邊の槿は馬の喰ひけり(伊達衣)
この句が初案と言われる。この句の場合,作者の感動の焦点は,路辺にわびしさをただよわす槿の真白い花よりは,馬が白い花を飲みこんだという奇抜さに置かれて,成案の<淡々とした属目の景の歌ながら,旅情の悲しみのそこばかなさ>を含むまでにはなっていない。
馬に寝て残夢日遠し茶の煙
この句は「道のべ」に続いての作である。この句と前句を結びつける時,両者にただよう,そこはかとない旅情の悲しさを洗いだすことは容易になってこよう。