福島県教育センター所報ふくしま No.13(S48/1973.11) -012/026page

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また,本教科の本質的なこととして「技能」がある。

(2) 「頭で考える」ということのほかの「体で考える」「手で考える」ということがある。法則・規則・方法・手順のような言語化,あるいは図示のような視覚化はできないが,どの個人にとっても,身心の活動の過程で「これだ」と識別しうる刺激がこれである。((2)前記『技術教育の学習心理』)この「技能」の学習なくして本教科の本質をふまえることはできない。

調和と統一のある人間形成をめざす一翼をになって,たゆみない進歩発展を続ける現代技術に,つねに正しく対処できる技術的能力を養い,創造的思考力の伸長をはかって,生活を明るく豊かにしていくことをめざすところに,本教科の本質があると考える。

それを学習対象を中心として示すと,次のようになる。

図2


すなわち,技術科の学習対象をあらゆる生活事象に求めて知らしめ,自然界におけるいろいろの素材(木材・金属・電気・機械などに関するもの)をつかって,これら素材のもつ本質的な価値に気づき,どうすればその価値を増すことができるかを考えさせる。これらを学習する過程において,生徒たちの持っている創造的思考力を促し,啓蒙しながら,基礎的技術を身につけさせていく。こうすることによって,自己にとっても社会にとっても生活をより豊かにしようとする態度をつちかっていくのである。

2 授業の個別化ということ

最近の授業研究は急激に盛りあがり,理科においては「疑問→仮説→検証→応用」というシステムが一般化しつつあり,社会科においては「構造化」が定着しつつあるように見うけられる。いずれも授業の効率化をはかるということを目途としての研究であり・これらはまた他教科の授業システム化にもとり入れられつつあるようである。授業のシステム化は,つまり,生徒たちの学習が,ひとりひとりにおよぼす効果をねらいとしていると見ていいであろう。したがって,授業のシステム化は,それの可能性を前提として

ということである。しかし,いかに綿密な計画も,けっきょくは仮のものであって,その仮のものを人間の行為として成立させることであるから,授業を授業たらしめる契機がたいせつである。その計画(授業案)が指導計画の中で動き,計画がくずれ,計画が変えられる,この瞬時である。これが授業の本領であろう。

また,授業の効率化は,生徒の個別化がねらいなのであるから,この個別化にあたっての認識がかかわってくると思われる。特に技術・家庭科における学習指導は,理解においても,技能においても,早い生徒,遅い生徒によって,そのステップの過疎が顕著にあらわれる。すべての生徒が同一の過程を経て,同一の認識に達せしめることが理想的ではあるが,遅い生徒には,より細かなステップを要し,また,生徒にとっては,能力に適しない認識ないし過程を強いられる場合もあろう。わが国の教育は,平等の原則から,前記のような,同一の過程を経て,同一の認識に達する教育がすすめられてきているから,これが個別化をはかるには,生徒たちの個人個人による学習過程の相異について,徹底的に究明されなければならない。これがまた新しい真の意味の個別化である。

生徒たちの創造的思考は,その認識過程において実に多様性を見せる。したがってその教育的作業もまたきわめて多様化してくるであろう。生徒たちの成長発達は多面的であるのだから,この多面さの追求が果たされなくては,個別化は望めないのである。

3 創造的思考力の伸長をはかるには

人間の一生は,要するにことの大小を問わず,それの自己実現の連綿であろう。教師のしごとは,それに対する教育という援助と助長の連綿であるといえる。現代における科学技術の進展は急速である。生徒たちがやがて生きていく世界を想像するとき,きょうの技術の基礎ばかりが,あすの技術の基礎になりうるであろうか。時代を超越して重要かつ不変と思われることは,生徒たちの創造的思考力であるといえる。しかし,この創造的思考力は,ある日突然芽生え,突然可能になれるものではなかろう。それは,教育という手段によってつちかわれ,洗練されていってより高次の創造を可能にしていくのだと考える。そこにまた,かれらにとっての生きがいの源


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