福島県教育センター所報ふくしま No.15(S49/1974.3) -027/030page

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<教 育 随 想>

第2研修部  柴 田 宣 教

ちかごろ郵便物の配達がおくれて,会合に間に合わなかったりすることがしばしばある。過ぎてしまった同級会の通知などを手にしたときのなさけない気持ち,ぶっつけどころの無いいきどおりを感じた人も多いことだろう。当事者に聞いてみると,「郵便物が多くて勤務時間内にさばききれないのだ」とつれない返事がかえってくるだけである。

郵便屋さんと言えば,雨が降っても風が吹いても,赤い自転車に乗って私たちの大切な手紙を運んでくれる有難い人である。「郵便屋さんご苦労さん」と感謝することを私たちは子供心に教えられ,また教えてきたものである。しかしいまの郵便配達は昔のように感謝されているだろうか。郵便屋さんが悪いわけではないが,配達されるものは読まなくとも良い広告に類するものが大部分であり,直ちに屑籠行きのものが多いのである。郵便屋さんもさぞ配達し甲斐のないことだろうと同情するわけである。

この10年間に電話が非常に便利になり,加入者数もふえた。今までは郵便屋さんの手をわずらわすほか無かった,個人相互のたより,商売上の用件,事務的な連絡,はては若い恋人たちの愛の通信まで,ほとんど郵便から電話に移ってしまったのだ。こうなると郵便制度の有難みがうすれ,そして郵便屋さんへの親近感がうすれ,配達する人の社会的評価も下がってくる。

私たちは働いている。働くならやり甲斐のある仕事をしたい。郵便屋さんが張切って仕事ができるようにするにはどうしたらよいのだろうか。ここまで考えたとき,私たち教員の仕事はどうなのだろうかと見なおす気になった。

20年ぐらい前までは,子供を叱る母の言葉として「言うことを聞かないと学校の先生にいいつけますよ」というのがあった。田舎で家庭訪問などすると,先生様,先生様と奉られたものである。また部落の会合などに出席すると先生の席は上席ときまっていた。なるほど昔の先生は偉かったかも知れない。師範学校で教育を受け,一般の人びとよりは,はるかに高い教養と知識を持ち,日本の国力や文化を西欧なみに引き上げようとのねらいから,強い権威に守られて子供に知識を教えてきたのである。ところが現在では,高等教育が普及し親の学力と先生のそれとの差はきわめて少なくなって来た。また職業の種類も増加し,ある専門の領域では先生の知識量が,親のそれに,とても及ばないようになってしまった。テレビなどマスコミの発達も,先生がたのそれを上まわる知識量を子供に植えつけてゆく。先生の与えることのできる知的情報量は,相対的に少なくなってしまったのである。なんでも知っている人と信じられていた先生の権威は,くずれ落ちたのである。

現在社会に満ちあふれる知的情報量は,私たち先生が学んで学び切れるものでなく,教えて教え切れるものでない。それでは先生は何を教えればよいのか。「いかに学ぶか,いかに探究するか」を教えることであると言われるようになってきた。

いかに学ぶか,いかに探究するかを教えるには,自分が常に学んでいなければならない。たとえ教え方が,すこしぐらいまずくとも,常に学んでいる先生に子供はひかれてゆくものである。常に学んでいる先生にこそ,本当の意味での教師の権威が具わってゆくのではないだろうか。当センターの研修のねらいもそこにあるのではないかと,我田引水的に考えてみた。

東京書籍中学校理科教科書第1分野(下)の教師用指導書204ページに,教科書119ページの問い(磁力線のようすから,2本の棒磁石の組合せを考えよ)の解答が示してありますが,昭和47年に購入した指導書の中には間違っているのがあるので正誤表を示しました。注意してください。

教科書P.119解答…正誤表


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