福島県教育センター所報ふくしま No.19(S50/1975.1) -004/026page
筆者の段落意識の方向をこのようにとらえる時,「人間そのものの偉さ」とは「人間以外のもの」の持たぬ「心」をさすと読みとれるにちがいない。さらに,このことから,「ほうぼうにある」とは「人間の心を育てる場面はいたるところにある。」という意味であることが明らかになってくる。それが,次の段落の「毎日の……巡り合う。」でもあり,(4)の筆者の生活態度でその具体的なうらづけをしていることが,順次読みとれるであろう。
こうして(2)をBridge‐paragraphとして,その改行の意識を追求することで,「筆者の段落」を読むことができるのである。
(2)を含めて,(1),(2),(3),(4)をひとまとめにすることもなければ,(1),(2),(3)と(4)というようにまとめることもないのである。自然のまま(2)は,Bridge‐paragraphとして独立させておけばよい。そうすることによって,筆者の考えにせまることが楽にできるからである。
もう一つ例をあげる。(紙面の都合上,実線と点線で囲んだ部分を行変しているが実際に行変されていない。実際の文章の段落は( )の番号による。)
(1)の1(○囲み),2(○囲み),3(○囲み)と(2)の4(○囲み)の例は実用の目的に目がいって本質を見ないということで結びついている。(3)冒頭の「たとえば」が(2)末尾の囲みの部分を受けている。こうして,(2)は(1)と(3)に同等に結びついている。
そこで,(2)は点線の囲みの部分「つまらぬ話をするなどと……驚くでしょう……。」を柔軟な展開点としたBridge‐paragraphであると考え,「筆者の段落」を読んでみよう。
「絵はわかろうとするのでなく黙って見ればいい。」という具体的行為としてとらえにくい筆者の主張を,どんな例と順序でのべるかというところに筆者の段落意識が働いていることがわかる。
Bridge‐paragraphを中心に下図のように「筆者の段落」を読むことができる。図の「筆者の考え」は「読者の段落」といえるだろう。それは骨でそれだけでは筆者の主張を理解したとはいえない。「見る」ことの意味は,時計,りんご,いす,ライター,すみれの例の中にある。とくにライターの例は,他の例と筆者の見解を結ぶものとして大切にすべきであり,それがスープをスープとして味わうことであろう。
5. おわりに
論説・評論といえども人間が書く以上情感の論理もあるはずである。そこを読むために,Bridge‐paragraphという文章の自然の流れにしたがった考え方をもう少しとり入れることが必要のように思うがどうであろうか。