福島県教育センター所報ふくしま No.19(S50/1975.1) -011/026page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

中学校教材

先行経験のとらえ方と生かし方を中心として

第2研修部  松本 道夫

○はじめに

生徒たちが学校における学習とは無関係に,ある事実について深い知識をもち,あるいは,高い技能を身につけている事実を知ることがある。中学1年の男子生徒がハムの資格をとり,その無線知識・技能に関して,他の生徒より高度のものを身につけているとか,農家の子どもで,自分もその主生産物の植栽に興味をもち,よく手伝い,父とともにその仕事にたずさわっているため,発芽・管理・収穫までに至る過程を実地に経験している者とかを,その例にあげ得ると思う。このような生徒は,教師の知らないところで,教師以外の教師から学び,図書に当たって独力で模索し,研究をつづけて習得してきたのだ。その知識・技能に対して教師は,かれに対して,「まだ教えなかった」とか,「生活環境と本人の興味や意欲が,たまたま一致したのみ」とか言って,故意に忌避することも,安易に受容することも不適当であろう。かれらのその習得し得たその知識なり,技能なりを無視することも不可能である。現代のように情報の発達した社会では,ますます,このような教室における教師の知らない場での生徒の成長発達の姿の実態を認如させられるであろう。それは,一個人の趣味程度であるとか,興味本位のものであるとかで処理し得ない厳然たる力をもって教師にせまるものがあるはずである。つまリ,今自分が指導しようとしていることとは無関係・無意味な事実であると断定することはできない。むしろ,その生徒が,自已の要求,欲求,興味から出発した活動のうちに発達しているそれを認め,それをさらに伸長させていく指導の手がおよぶところに教育の存在があろう。そしてこの場合,教師のなし得る指導が,かれに対して従属的(一見消極的)な指導をのみ与えるにすぎないと思える易合はなおさらである。

生徒たちの先行経験を無視して教育は成立しない。教育の現代化運動が顕著な現在は,上のような事実も考慮したうえで,学習内容を学問の体系にしたがって決定し科学の現代的成果を教育の内容にどのように組み入れ,体系化していくかがその追求課題であり,そのようにするためにはまた,単に教育内容や技術の問題にとどまらないで学校,教師という人的組織にまで言及されていくし,改善化されてはじめて教育の最適化か可能にもなってくる。

○先行経験のとらえ方・生かし方

さて,生徒たちの学習経験(先行経験)のすべてが,教育的価値を有すると断言するものではない。教育的に望ましい経験は発展的に連結した主体と環境との交亙作用の行われる経験だからであるし,しかも,統合的に進行する経験でなければならない。学習する生徒の学習の質を高めるためにあたえられる教育的価値をもった,質的に再編成された経験を問題にしたい。今,このことをしようとするときに,生徒各個人それぞれに生れながらにしてもっているとか,生徒各個人それぞれのその差異等の実態は握は非常に困難なことであるからである。

たしかに生徒たちは,教師の意図的な指導とは無関係に,独力で発達している面は,マスコミの発達とともに急速に幅広く認められる。しかし,その実態は握ないし先行経験のは握は簡単でない。生育歴も異なり,能カの差もあるであろう。広範囲に生徒たちの全生活のそれをとらえるのには,ぼう大な調査の日時,方法の駆使,分析方法それ自体の研究が必要であり,実際的でないのではないか。だが,学習指導にさきだち,その学習指導に関して直接的にも間接的にも影響を与える,学習経験や生活経験(先行経験)をとらえることは,学習指導をおける生徒たちの認識や,思考過程を認知する上からも,きわめて重要なことである。

最近の教育研究の主題の多くは,「ひとりひとりの自主性を―」,「ひとりひとりを生かす―」,「ひとりひとりの学習効果を―」,「ひとりひとりの能力・適性を伸ばす―」(学校教育,No.81,No.86)という指導の個別化が目立だっている。これらの研究の出発は,生徒の実態は握(先行経験認知)なくては不可能である。

このことはまた,指導研究計画立案の端緒であリ,指導あるいは研究の展開の基礎でもある。これの分析によって研究なり指導の手だてが講ぜられよう。研究の評価指導効果の判定をする上でも重要なことは周知のことである。

そこで,このような意味での先行経験を,どうとらえるか,ということになる。それは千差万別の方法が考え


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。