福島県教育センター所報ふくしま No.19(S50/1975.1) -023/026page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

<教育随想>

あり得ることと,あり得ないこと

第2研修部  柴田 宣教

「音の人は良かった。読み書きそろばんだけを勉強すればよかったのに……」学期試験を前にして高校生の娘の感想である。「先生に理科を習った者ですが,卒業と同時に一切を返上してしまいました。」これは町で会った中堅サラリーマンの言葉である。このような言葉を聞くにつれ,理科教育とは何だろうと考えさせられるのである。理科の学習は知識をおぼえることがねらいではなく,科学的な考え方や方法によって物事を解明することのできる能力を養うことにある,と信じ,私は考えてきた。しかしその成果はどうなのかと,甚だ心細い。

「さあ皆さまお立合い」と口上よろしく大道商人が,小さな練こう薬を取り出した。この薬はきわめて浸透力が強く,このように手のひらに付けたものが,すぐ手の甲にまでしみ出してくることを実験?して見せる。つぎに試験管に血を取って毒?を入れる。血は青黒くなってしまう。そこでこのこう薬を試験管の外側に塗りつける。中の血はたちまち真赤になる。このようにこの薬はガラスをも通して浸透するすばらしい働きがあるのだと,得意になって薬を売りつける。私はこの試験管の内部での血液の様子を注意深く観察していた。試験管の底から,小さなあわが立ち昇っている。試験管に何か入れたなと,私はこの実験?のからくりを了解した。

超能力を持った人間が,地球のかげから念力を送り出す,その時間に止まった時計が動き出し,スプーンが曲がる。マスコミはまことしやかに宣伝し,テレビ局は放映する。それを確かめようとする人が大ぜいおり,そしてそのしりうまに乗って実験成功を言いふらすお人好しもいるのである。私たちの理科教育は何だったのだろうかと,がっかりさせられた。

ひのえ午の年の出生数が前年より何パーセントか低かったと言う。そのため就学時に学校の先生の数がアンバランスになって困ったと言うことが,ついこのあいだあった。

空とぶ円板がこの間も新聞をにぎわした。それも学校での事。実際に見たと言うのを信じるなら(錯覚の方が多いかも知れないが)それは何だろうかと科学的に解明される努力があって良いと思う。人間が打ち上げた飛行物体であることもあろう。人工衛星が落ちて来たのかもしれない。鳥などが高く飛んでいたのかもしれない。また地上の光が,何かの関係で雲のスクリーンに像を作ったのかもしれない。しかし中には科学的解明を一切抜きにして,現実と空想をゴッチャにして,超人間や宇宙人の仕わざと信じたりしてしまう人もいる。

勿論世の中は科学万能ではない。精神の世界や芸術の世界が大切であることは言うまでもない。しかし精神の世界と科学の世界は次元が違うのである。精神世界の問題を科学的に解明しようとすることは無意味であり,また物質の世界に,心の世界の論理は通じないのである。この面をゴッチャにすると,とんでもない判断が生まれたりする。

あり得ることと,あり得ないことを判断できること,これが理科を学ぶ者が身につけなければならない最低の目標ではなかろうか。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。