福島県教育センター所報ふくしま No.21(S50/1975.6) -003/025page

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「唐詩」の絶句,それに「故事・寓話」の類が,その大部分を占める。これらの中学教材を高校の入門指導に活かしていきたいと思うのである。とくに「絶句」等は,その長さ,味わいからいって,きわめて適切な入門教材となりえよう。生徒の印象からいっても妥当ではなかろうか。次の表は,東京都立清瀬商校の志村正昭氏が,自校の二年生1男女173名に対し行った「古典学習に関する質問調査」の一部である。

表1 漢文のうちどのようなものを学習したか。 (49年4月)
表1 漢文のうちどのようなものを学習したか

高校一年での学習教材も含まれているとは思うが、それにしても生徒の印象に残っているもののうち7割以上が唐詩であり,その過半数が絶句を印象深いものとしてあげている。律詩の「春望」が広く人口に膳策しているものだけに,絶句の総数がそれを上廻っている意味については注目せねばなるまい。絶句を入門教材としてとりあげることを提唱するゆえんである。

さて,それでは,本県の中学校で採用している光村図書の国語教科書では,どんな絶句がでてくるのであろうか。唐詩は三年の教材として次の三つが提出されている。

○ 江碧鳥逾々山/山青花欲然/今春看々又過/何日是帰年. (絶句:杜甫)○ 李白乗舟将欲行/忽聞岸上踏歌声/桃花潭水淡千尺/不及汪倫送我情 (贈 汪倫 李白)○ 独坐幽篁裏/弾琴復長嘯/深林人不知/明月来相照 (竹里館:王維)

書き下し文を上段に,漢文を下段に配して,吉川幸次郎の鑑賞文をそえている。これが重複してあらわれる高校漢文の教科書は次の通りである。

漢文の教科書

大部分が入門編のあとに出されているこれらの教材を入門指導として扱っていくならば,よみ方や,大体の意味についての指導の困難はすくないと思われる。中学の場合とは逆に,原文に書き下し文をそえて,教師や既習の生徒が二,三度通読しているうちに,初めて読む生徒たちも,すぐついてくるようにたるにちがいない。そえられた書き下し文と比較しつつ,日本語との語序・語順の相違を指摘し,それに返リ点,送りがなをつけてみるといった指導を続ければ,入門必須の指導事項とされることがらに,しだいになれてゆくことができる。

最近は入門編と銘うった単元の中に唐詩をとりいれているものもある。(甲……筑摩,尚学:乙……旺文杜,大修館,三省堂,講談杜,尚学,第一,秀英)。しかし,中学校で学習した教材でない場合は,どうしても訓読に傾きがちになりやすい。入門指導が学習意欲の喚起である以上,とりあげられている詩の理解や鑑賞を深めることによって,すぐれた古典としての唐詩を読む喜びなり,味わいの深さなりを認識させることのほうが重要であるかもしれない。中国全図の大地図を持ちこんだり,教科書に付載された地図などによって,中国の大きさ,黄河・揚子江を中心とする地勢・気候・風土,その流域に発達した文明文化について,教師の力量に応じた概説を試みることは,すぐれた文芸作品に接しながらであるだけに効果的であろう。地図などのほかに,教育機器や教具などを駆使して,多彩に興味深く漢文への導入をはかることは,この入門第一,二時限では,もっとくふうされてよい。第ニ,三時限には,さらに二,三編の詩をプリントなどで加え,復習補足を行っていけば,従来,入門指導として必須であるとされてきた事項について,一応の基礎学習はなしうるのではなかろうか。

絶句による入門指導は,中学校での学習を土台としているだけに,前述の指導をそう抵抗なくなしうると考えられる。杜甫の「絶句」の詩句の中で当用漢字でないのは,「碧・逾」だけである。「贈汪倫」では,人名を除けは',「忽・潭」が当州漢三宇外であり,さらに「竹里館」では「坐,篁,嘯」が当用漢字外であるだけなのである。漢字の抵抗が云々され,漢文を難しいものとする認識は、多分に単なる印象によるものであることが,このへんからわかるのである。いわれなき漢文に対する抵抗やおそれを生徒の心の中から取り除くためにも、このようなことを入門指導の中におりこんでいってみてはどうであろうか。

中学漢文教材を高校漢文の入門教材とすることは,入門指導の無味乾燥な欠点をカバーして内容鑑賞に目をむけさせながら,漢文学習の必須事項を取り扱うことのできる一点と必要以上の抵抗感をもたせないように指導できる点で今後重視されてよいであろう。そして,そこに中学校古典教育と高校古典教育における接点を求めることができるはずである。


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