福島県教育センター所報ふくしま No.23(S50/1975.10) -018/026page
電 子 :軽く,速く制御しやすいもの。 計算機 :子供が数をかぞえるのに指を折るようなもの。 このようにとらえてみると,コンピュータは人間の頭脳にちかい。そして人間より単純な活動をしているものである。
機械にすらできるということは,単純なパターンにわけることによって判断が可能になったからだと思う。
さて,生涯,意思決定にせまられている人間は,その意思決定を情報にたよらなければならないのに,たまたま情報には時間的なズレがあるという。このズレを少しでも減らすことは「どんな情報を体得しておけばもっとも有効なのか」ということになろう。
言いかえれば,「情報価値」をみわける方法の承知,不承知が生涯を左右しているというわけである。
情報の,どれが重要であろうか。その情報がどれほど重要な意思決定に用いられるものか。
すなわち,情報の価値:をきめるものは何かという次第になる。
さきに,問題をを具体化する方法として連続性と非連続性をあげたが,それを並べてみただけでは仕方がない。意思決定ができるためには,できるように情報を加エする能力が要求される。
この情報加工のことを,ひとつの情報処理と言うことにする。
情報処理とは,人間が行動をよぎなくされているとき,情報を意思決定に役立つように集めたり,加工したり,伝え,保存または捨ててしまうようなことをいう。
慎重を期さないとその集めたものがホコリをかぶってしまってゴミ処理といわれたりする。
この原因は,情報処理が意思決定への手続きである以上はなんらかの意思決定につながっていなければならないのに,情報価値というよりは有用性のみが先ぱしって,処理が意思決定につながっている度合の分析作業を忘れていたことにある,と考えられる。
従って情報処理には,そのままでは役立たないが加工すれぱ役立つものと,そのままでも役立つものとあるので,情報処理能力をもっている人と,もっていない人とでは意思決定に役立つ情報の利用範囲がかわってくることになる。
団体にとっても,情報を有効にして団体の利益向上に効果をあげてほしいのだから,情報処理能力の差違は,情報収集コストと情報処理コストの比較にとどまらず,団体の死活問題に発展していく。
情報処理が,なぜ必要かは,上述のように情報の選択能力がひとつの生命態にとって重要だからである。
それに加えて,今日は,過去から経験的に考えることより,将来からとらえて目標を設定するようなこともあるので,計画的に,あるいは数値解析という情報処理技術法を開発しつつ,より情報処理の必要性を重視しなければならないのである。
一例を企業体にとれば,企業では管理者,新入者の教育プログラムに「情報処理」を盛り込み,社員の意識構造の変換をねらっている。
それは業務のシステム化にあるため,従来無意識に行われていたものを意識化しなければならなくなったからである。
また,企業における情報処理教育は,新しい時代に即応する教育としてとらえられ
1 情報処理技術者の養成。
2 広い意味で情報処理システムにのせること。
3 一般教養。という三態にわけられ,その教育は直観と論理のつみかさねを経ながら,情報をプログラムし,制御する態度の育成を目標としている。
一般的に,システム思考を芽ばえさせる行動が必要であるといわれるようになったわけはここにもある。
こうなると,学校教育という基本的な学習の場で,情報処理などについて無視してはいられない。
ある教育研究家に言わせれば,右図のように「教育」が共有化している現在では,教育の専門職にある者が,教育の共有化にひそむ不安定要因に注目しながら,教育とはどうあるべきか,また生徒が何をなすべきか,すなわち「目標設定」「情報処理」について,自覚とプライドをもつ時代である−と語っている。
また,情報処理能力の養成は,各教科のなかに
1 情報の発生から消滅までの面倒のみ方(情報の機能)
2 理論づけによる判断の習慣(情報による意思決定)
3 表現・伝達・理解のたしかめと訂正(情報のサイクル)を共生させることだともいう。
それは
イ 字を正しく書けるよう
ロ 道具をもとのようにしましょう。
ハ ビーカーをきれいに洗うよう。