福島県教育センター所報ふくしま No.23(S50/1975.10) -019/026page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

などの,もっとも基本的な学習のくりかえしからはじまるともいう。

私としては,とまれ学校では情報処理能カを養成する必要がないとは少々ゴーインすぎると言いたい。

勿論,改めて一項をもうけなくとも各教科内で実施していることでもあろうからである。

しかし,あえて「情報処理能力」の養成を確認の意味で浮彫りしてみると,つぎのような能力を指しているようである。

1 この情報洪水に流されないカとなるもの。
2 情報にたよりすぎて,自分を見失わないカとなるもの。
3 機械による省カ化の時代的傾向のなかで,暇を有効につかえるカとなるもの。
4 情報のくり返し宣伝を盲信しない力となるもの。

それでは,この目新しい情報処理能力を体得させるにはどうしたらよいだろう。そのニ・三は,

(その1)フロー的思考を会得させる。

文章はにが手でも,図によって考えの順序があらわせるし,それに,順序のまちがえを発見するのが早くできる。

(その2)仮説をたてさせ,実験で証明してみる。

自分の考えが,具体的な自然現象によって訂正されることにより,もし出来なければ大変なことになるという自覚の発生を期待してもよい。

(その3)長い文章を要約させる。

だんだん秩序のととのってくることを情報科学ではエントロピ−が減少してきたという。

情報には,このエントロピーの増大は敵である。

(その4)逆に,ひとつの語を数枚に書かせてみる。

観察の広狭をうかがうこともよいが,この作業で自身のなかに疑問または問題が惹起してくる。それを解こうとすると,問題の構造をたしかめ,明らかにしたい欲望が生じてくる。

(その5)実は,伝達には

1 信号だけでよい場合。
2 意味だけでよい場合。
3 感情の起伏をうけて欲しい場合。

などがある。そこで「うれしい気持」とか「猫」などを人にわかってもらいたい場合,どんな表現方法がもっとも望ましいかをたずねる。

(その6)考えるテクニックをパターンとして示す。

試行錯誤してみる……と言われても,どういう試行があるのかわからない場合がほとんどである。

いらないネクタイで座布団の皮をつくるなどとはとても試行で出来るものではないが,求めざればアイデアも生れない限り,求めたいときの手がかりが欲しいのである。

以上のほかにもいろいろあるであろう。

そしてここにあげたいくつかの方法は,授業中には遊びになってしまうかも知れない。

けれども,学習者の頭のなかでは「ああか,ここか」ゲームが展開されているように思える。

それは「高尚な遊び」とも思える。

だから,でたらめた仮説や,問題から離れた空想(ときには面白い連想でもあるが……)は別として,できれば,今までの経験とか原理を利用するようにしむけたいものである。

たとえば,大人でもVTRの操作を誤るとコンセントは正常,ヒューズOKでも電気が正常に入らないことがある。

チェックという情報処理は,過去の知識(情報)が大きな効果をもつことを意味している。

このことを角度をかえてみれば「成績のよい人とは」

1 自分の考えが間違っているとすぐに変える,けれど,一度にたくさん変えないでひとつひとつ消していく。

2 その考え方が正いければ,もう考えをかえない。しかし,はじめはたくさんのパターンをもっていた。

能カ養成に,ある方法をとる場合は,このように,反応の変り方が少しづつ組織的に行われるように学習させることを前提におきたいものである。もしも,このような学習でなかったときは,飛躍的な考え方に陥入るかも知れない。

電気の交流を図でみると波形なのに,なぜ電線は直線なのかという人がいても,それは人によって理解のパターンがちがうことを承知していなかっただけで,あわてずに,(その着想がいたずらに埋没することを借しむように)別の学習パターンを示す準備が必要なのであろう。

したがって,情報処理能カの養成目標は,基礎知識や深い経験による反応レバートリを広げてゆき「あらわれ出てくる情報に対面しても,その事態に適する構造が自身の中に作りあげられている」ことである。

しかも,その構造は,情報との対面の結果「いそがずに内部構造自体をソフトに変えられる性質」であることが大切である。

逆説的にいうと,ディジイタルで,ハードな人間は,情報処理は下手かも知れない。

だからコンピュータは,情報処理の上手な 人間をもっとも要求している機械 ・・・・・・・・・・・・・・・ であると定義できるのだろう。


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育センターに帰属します。