福島県教育センター所報ふくしま No.27(S51/1976.8) -001/026page
巻 頭 言
第一研修部長 星 幸 雄
その教室では,1年生が「いろいろなかず」の学習をしていました。授業者は50代のベテラン女教師。どんなにすぱらしい授業だろうと期待して教室に入った私は,先生がのべつまくなしお小言を言っているのにすっかり驚きました。
「○○君。どうして席を立つの。先生はそういうの気に入らないよ。」
「いらない箱が机の上に出ています。」
「ふで箱の位置が違うよ。」
「こんな間題,早くできないとだめよ。」
「できない子は頭に注射するよ。」
「忘れ物したら,時間が始まる前に言わなければダメじゃない。」
ものの5分ほどの間に,こうしたことばがどれほど繰り返されたでしょうか。その間,内容についての発間はたったの1回,「25円にするにはどうするの。」でした。
× × ×
これは,総合教育技術1月号に載っていたところの記事である。
今,教育の現場では, 精選 ということが取りざたされているが,精選は何も 教材の精選 ばかりではあるまい。過密ダイヤと称しながら,こうした無為な発言で貴重な時間を浪費していることを思うとき, 発間の精選 こそ日々の授業でもっと真剣に考えるべきではないかと思う。
ここでいう発問の精選とは,単に量的に発問回数の少ないことを指すだけではなく,質的にいっても教材内容の実質的な展開をめざし,しかもそれが子どもの思考や技術や心情の実態に即して,その継続的,または飛躍的な創造,発展の路線に沿うということである。
現場での研修として大事なことは,
○授業の効率を高めることをねらいとする。
○そのためには授業の実践能力を高めることである。
○授業の実践能力を高めるには,まず,毎目の授業の実践におけることがらを反省し,意欲的に改善し,実践することである。そのためには,
○授業の基本となることをまず実践することである。むずかしい理論は言うが,基本がまったくなっていない授業がやたらに多い-とは矢田部達郎教授の言。
どんなに学習指導が近代化されようとも,教師の発する間いかけがなくては学習は進展しない。それが単なる教育の末梢的な技術面として考えられたり,軽視されたりはしていまいか。教授=学習指導の中核的な役目を持っ発問を,もう一度見直すべきではないかと思う。
これについてバートンは次のように言っている。
「教師の実際的な発問の方法技術は,最も困難な問題の一つである。しかるに,奇妙なことにはこのむずかしい間題が授業の中で一番無視されている。」と。
発問の乱発は,一つは教材研究の不足からくるものである。極球(きめだま)を持たない教師側の自信喪失に起因する。そのことが教師自身の思考の混乱を誘発して,遂には学習進展の方向と路線とを見失って,右往左往する子どもたちによって引きずり回される結果に陥る。外観上は学習活動が活発で,教師は次から次へと流れるように,子どもたちの意を迎えそうな発間を失継ぎ早やに投げかける。子どもたちもそのつどはずんだ応答で回答はしていても,客観的な内容面では低い次元で足踏み状態が続いているということである。
さらには,教師が敷設したレールに子どもを乗せることを固執するあまり,受け身の立場におしやられた子どもたちを,まるで労働意欲を失ってうずくまる牛を無理やり立ちあがらせるようなあせりからの乱発も考えられる。
すぐれた授業では,授業者は多くを語らないものである。教師から見て,確かな手応えのあった授業,子どもたち自身にも真実の力がついたという内心の信証を伴った授業,第三者から見ても,教える者と学ぶ者との間に火花でも散るような緊迫の中から創造された授業-こうした授業は指導者の発言量が著しく少ないということである。
これこそ 精選 でなくてなんであろう。毎時の授業であってみれば, 教材の精選 以上に重視すべきであり,こうした授業が日々展開されていれば,「見切り発車」とか,「三割教育」とかの忌わしいことばも出て来ないのではあるまいか。