福島県教育センター所報ふくしま No.30(S52/1977.2) -011/026page
<随 筆>
接 遇
次 長 後 藤 篤 一
除夜の鐘のなり終るのを待って近所の曾根田天神の社に参詣しました。あら玉の年という心の持ち方のせいもあるでしょうし,きゅっと身を締めつける厳しい寒気のせいもあるでしょう,何か名状しがたいすがすがしい張りのある気持で鈴をならし,よき年を祈りました。
境内では,かがり火があかあかと天を焦がしておりましたが,例年と違い参詣する人もちらほら,手をかざす人も稀でした。時折,松上の雪が風で細やかにくだけ,軽やかに舞い,火にほてった頬をここちよく冷やしてくれます。
それは,自分の身のまわりのことや世の中のいろいろな出来事を超越した清らかさと安らぎを感じさせる元日の寸刻でありました。
家に帰り,床につきながら去年今年のよしなしごとを考えましたが,その一つはこんなことでした。
わたしたちは,日常生活を営むためにも,公務を遂行してゆくためにも,常に多くの人びとと接触をし,いろいろな社会的関係を保ちながら生きております。そしてそれらの人と人のふれあいの場をとおして現われたこの一年の自分の言動をふり返ってみると,余りにも欠けることが多かったような気がいたします。
よく人間は感情の動物であると言われており,一個のパーソナリティをもった人間であっても,こちらの出方次第では,柏手の態度,行動はさまざまな現われ方をします。満足感を心から味わうこともあるでしょうし,不快感をいだくこともあるでしょう。さらには,あい対立するような事態を引きおこしたりすることもあるでしよう。
感じの良い,きれいな接遇(応対)は人と人との関係を明るくし,円滑にしますが,逆の場合は人間関係を悪くし,狂わせてしまいます。そこでどうしても,わたくしたちは,お互いに温かな接遇というものを心がけることが必要ですしまた,事実どなたに対しても,本当に気持のよい接遇をやっていらっしやる方も周囲に数多くおいでになります。
接遇というものを考えてみますと,まず一つには,ある目的(用件,考えなど)をもっている人と人との直接的なあるいは間接的(電話や文書など)な接触をさすものであると思います。二つ目には,お互いが,それぞれの目的を達するために常に相手の立場に立って意見をきき,その目的を十分に理解するとともに相手方にもこちらの目的を聞いてもらい,かつ理解してもらうことであろうと思います。
そのためには,人はだれでも長所をもっておりますが「人はなくて七くせ」といわれるように欠点ももっているわけです。これを十分自覚しながら,足らざるを補なう努力をこつこつと積みかさねてゆくことが大切なのではないでしようか。
また,わたくしたちは,生まれながらの資質も違うし,育った環境も,教育も,経験も,身体的な条件もみな違います。従って,各人の知識,技能,態度はもちろんのこと感情も,興味関心も,考え方もみな違ったあらわれ方をします。まさに十人十色で,十把一からげにとりあつかうことはできません。
相手を理解する,相手の立場に立って考えるということが,いかに難かしいかがわかります。しかも,接遇は相手あってのことですから,相手を一面的でなくできるだけ正しく知らなければ,うまくことが運びません。
こんな話を聞いたことがありました。
あるときエマーソンとその息子が小牛を小屋に入れようとしました。そのときエマーソン親子は基礎的な誤ちをおかしました。息子は子牛をカー杯ひっぱりました。エマーソンは後から一生懸命おしました。しかし,子牛は小屋に入ろうとする意思はなく,四肢をふんばって動こうとはしません。その様子をみかねてアイルランド生れの女中さんがやってきました。彼女は論文や本を書い、たりはできませんが,少くともこの場合,親子より相手の立場に立って考えることを知っていました。つまり,小牛が今,何を欲しがっているかを考えました。彼女は自分の指を小牛の口にふくませると,それを吸わせながら,やさしく小屋に導き入れたのです。
これは作り話かも知れませんが,相手を理解しようとする前向きの姿勢があれば,相手もこちらに気持よくこたえてくれるというよい教訓ではないでしようか。
接遇ということは,単に個人対個人というだけの接触ではありません。日常の職場の中でも,県という大きな組織と全県民という間においても数限りなく行われています。一人の公務担当者が,親切な応対をすることで一人の県民を県政に対するよき理解者,よき協力者にするにとどまらず,さらに,わたくしどもお互いがその輪を拡げあい,組織全体と県民の背後にある地域社会とがよい印象で,よい結果で堅く結ばれる今年でありたい,そんなことを思ったのでした。