福島県教育センター所報ふくしま No.32(S52/1977.8) -003/033page

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よそしく自己の外にあるものでなくて,自己の内に取り込んでいかなくてならないもの,その取り込みによって自已の存在をより高い価値を実現しうるようにするものである。この意味で,それは,もはやobject matterではなくて,自己主体にかかわるもの,すなわちsubjectmatterなのである。学習する者の興味・関心を,知的好奇心を刺激し,深く学習を動機づけるものでなくてならないことは,いうまでもないが,それにつきるものではなくて,おのれ自身を高めるために,このものに依っていくのだという,学習する者の主体的自覚が根本的であり,自己の責任において行う学習の内容・対象である。すなわち自己の学習材なのである。教材を提示する,用意するときには,まさにこの条件にふさわしいものを選び,かつ,この主体的な自覚を呼びおこすのでなければならないと思う。

 (3)は,学習意欲の間題である。これは学習する意志の動態である。それは,学習という行動を選択し,実践するこころの働きであり,学習に対する「要求の強さ」として作動し,かつ学習活動を開発し,進行させる「動力」として働くのである。この構造契機を,紙幅のつごうでまとめて簡略にとりあげてみると,(ア)学習行動の目標把握,(イ)学習行動の水路選択,(ウ)学習行動と矛眉したり,それから逸脱する衝動や習慣を禁止する,(エ)学習目標到達への耐性につらぬかれる。(オ)究極目標,それは,真っ当な自已創造,ということになろう。したがって,学習意欲が強い,弱い,持続的,一時的という違いは,きわめて根底的な問題になるのは,お互い十分理解のいくことである。学校教育の役割の一つの重要な面は,この学習意欲を,生涯にわたって持続することができるよう,その根底を確かなものにすることにあると言わなければならない。

 ところでこのためには,学習意欲を規制する諸条件を吟味し,それらにふさわしい指導の手立てを講じなければならない。もちろん,学習意欲の構造契機のそれぞれについて,適切な指導が行われるべきは,当然のことである。学習意欲を規制する条件,それは,これも詳述するスペースはないが,次のように見ることができよう。

A.主体的条件(学習する者の主体にかかわるもの)この中には,その子どもの知能,性格,身体的状況,学習のタイプ等があるであろう。

B.場的条件(学習する者の置かれている状況にかかわるもの)これには,その子どもが立ち向かうべき教材,もろもろの物的環境,心理環境(学習のふんいき,人間関係一家族・友人・教師との),とりわけ教師の指導のあり方(評価を当然ふくめて)等が考察されなくてならない。

C.当面した学習において達成感を持ち得たかどうか。

D.学習の仕方を理解し,適用できるかどうか。

等である。これらABCDの諸条件は,構造契機アイウエそれぞれに影響し,究極目標にアプローチするのを規制することになると見なければならないであろう。

 Cは学習という活動そのものである。学習の目あてをとらえる,そこから教材にたちむかう,それはそういう意欲に支えられている。だからそれらは,すでに学習という活動がなされているといわれることは当然であるが,目あてのおき方,教材のあり方によって,活動そのものの態様は,異ってくることは明らかである。学習する場合,有効な活動をしなければならないのであって,そのために,この態様の考察は大切な問題であること,言うまでもない。(ここで活動を表現したが,学習は,目的活動なのだから,行動という表現がよりよいではあろうが,相通じて用いたまでである。)

 ところで,学習活動は,外なるものを内にするはたらき,即ち,理解受容の面と,内なるものを外にするはたらき,即ち,表現する面とかあるわけであるが,理解受容したものを,確かに保持する面を見落してはならない。「学習とは,(中略)行動を操る神経系の可塑性,すなわち,記億の仕組みを基盤にして行われる。(下略)」と時実利彦著「人間であること」(岩波新書P 106)に記されていることは,今さらめかしく取り上げるまでもあるまいとはいうものの,現実に,学習指導に当って,記憶の問題が軽視されたり,誤解されたりもしている状況においては,お互い注意を新たにしておく必要があるであろう。ともあれ,保持をたしかにするには,正しく理解受容がまず行われなければならないし,練習を工夫することによって,効果をあげうることは指摘をまつまでもないであろう。

 また,理解受容を表現することを通して,確かめられることも体験されるところであるし,よい表現が行われるためには,理解受容の面が正しく,ゆたかであることが不可欠になる。しかも表現の面は,正しく,ゆたかな理解受容を基盤にして,創造的になっていくものであり,そのように,ささえられ,はげまされるのでなければならない。

 さて,具体的な活動においては,(a)みる,きく,よむ(b)かく,かたる,行う。の二系列と,双方にわたる(c)考える。がある。そして,それぞれ,仕方があるわけである。たとえば,見方,考え方,やり方,というふうにである。おぼえ方というのもあって,年少の頃,それらを活用したはずである。このようにして,わかる〔はっきりわかる一構造的理解一から,深くわかる一全心的理解一(深くうなずくことができる)へ進むのであり〕から「何々できる」ようになるべきであり,そうあるように導かれなくてならない。しかし,いずれにおいても,「考える」力(思考カ,とりわけ判断カ,批判力)が重要不可欠であり,したがって,「考え方」の指導がきわめて大切である。

 指摘しておきたいことは,上述の(a)の系列に比して,(b)の系列の指導が弱い。また,見ればわかる,聞けばわかるという工夫にかまけて,考えることへの配慮を疎かにする向きがあるということ。視聴覚教具の安易な用い


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