福島県教育センター所報ふくしま No.32(S52/1977.8) -004/033page

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方が,このことに連なる。きびしくいましめ合う必要があるということである。

(3) 学習の過程について

 学習の目あてに到達するために,学習材(教師の側からすれば教材)に立ち向かって,いくつかの課題をつぎつぎに解決して,ついに目あてに到りつくという,いわば,解決連鎖の過程が,学習の過程であると見ることもできるであろう。この場合,何よりも,目あてを確かにおさえるのでなくてならない。つぎに見通しを持たなくてならない。それは計画をたてることでもある。計画にしたがって,まず何を解決しなければならないか,すなわち,当面する課題は何かをとらえなくてならない。目あては,先きにあるものであり,課題はこの場合手元においてやらなければならないことがら〔すなわちタスク(task一仕事)である。この課題を解決するために,既知を動員し,組織し,思考力を働かせ,工夫し,こうして,この課題を突破すれば,つぎの課題が見えるのでなければならない。それに挑戦するというように連鎖的に展開する。その間,つまずきや失敗も生じるであろう。それらは,1つの危機でもある。それを突破しなければならない。フィードバックを必要とする場合には,それを遂行しよう。全くやり直すということも起り得る。それらに耐えて,粘り強く遂行するのでなければならない。しかも,目あてをおさえる段階,見通しを持つ段階,課題をとらえる段階,1つの課題を解決した段階,かくして最後にしめくくりをつける段階,それぞれの段階における たしかめ (これは,1つの評価であり,同時に,それぞれの段階の まとめ でもある)を行うことは,確実な学習の展開のために必要なことであって,なおざりにしてはならない。特に,1つの結論,1つの解決に達したとき,その結果をさらに間うことは,いわゆるフェリビリズム(fallibi1ism)の立場に立つ学習のあり方であって,きわめて人間にふさわしいあり方である。(動物も学習するが,この立場に立っことは不可能ではなかろうか。)たとえば,ここに1つの例として虫喰算の1例をあげてみる。
97口
× 口口

口口口口
口口口 

口7口口0

この正解は,2っあるわけだが,1っの正解が出されたとき,これでよいか,他にないか,と問うことは,上述の立場の1つのあり方なのである。(間題は,渡辺茂,数学感覚,青春出版杜,P173から借用)もちろん,フェリビリズムの立場は,人間本来あやまり易い存在なのだからという謙虚さに立って,結果にあやまりないことを期そうというのである。したがって,学習に関してのみでなく,人間の行動一般にわたるべきものである。

2. 学習指導について

 学習について考察してきたなかで,しばしば,すでに学習指導についてふれてきたところであるが,この項において,あらためて,学習指導とは何かを問うことにする。ただし,学習指導について詳論することは,措くこととして,今日,学校教育の現場で取り上げられている「ひとりひとりを いかす 学習指導の問題にはふれることにし,その間,いくつかの臆見とも見られることがらにも言及したいと思う。

(1) 学習指導とは

 学校教育において,学習指導の問題を考察する場合,その基本的な立場を筆者は恩師山田栄博士の所説に依っている。(山田栄先生は福島県会津の御出身,東京教育大学名誉教授,文学博士,教育学における本邦の泰斗)。それによれば,

 学習指導というのは,計画された教育内容の展開のため児童生徒の学習活動を指導し,彼等に「学力」を身につけさせる「方法」を意味する。(山田栄著,幼児教育原理要論,新教図書P50)ということである。

 「学力」を身につけさせるということは,すでに学習についての考察の折に,(4)の後段において,学習は,「何々できる」ようになるべきであり,そうあるように導かれなくてならない云々と述べたことなのである。

 ところで,学カは,人格の資質内容の領域である。認識的領域・技能的領域・情意的領域に分属する諸能力となるのでなければならない。すなわち,学習指導は,人格の完成を目ざす人間育成のためのものであることに深く心をいたさたければならない。学習ということが,本来,人間としてよりよく生きていくためのものであって,このことを成し遂げさせるのが学習指導であると,すでに述べたことを,あらためてかみしめたいのである。学習指導が,単に学力を身につけさせればよいというのではなくて,その学力が,人間としてよりよく生きるために発動するようにさせなければならないのである以上は,じつに,学力を身につけさせるプロセスにおいて,すでに,人間としてそれにふさわしい学習の仕方をさせる指導でなければならないと同時に,不用意にも,児童生徒を,あだかも学習する機械のようなあつかい方をしたり,指導のプロセスを,物の生産のプロセスに類似したようなあり方にしては,決してならない。このことに関連して,筆者はおそれるのだが,スイッチ オンからスイッチ オフのプロセスに比されるやり方や,通過率何パーセントだから学習を先きにすすませるというやり方には,無意識のうちに,学習する子どもを,機械や物に扱っていわしないかということである。ところで,身につけた学力をもってより人間らしく振る舞いうる子どもを育てる指導でなければ,学習指導の名を属することはできない。この意味で,学習指導は,生活指導(生徒指導)と,その機能をいつも相補的に発動させるのでなければならない。

 さて,学習指導は教科指導のことであると限定している向きがあるが,それはいかがなものであろう。学習する場は,教科におけるものに限定されるものではない。特別活動(教科以外の教育活動)の場においても,道徳の領域(道徳の時間を当然ふくめて)においても行われ


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