福島県教育センター所報ふくしま No.32(S52/1977.8) -005/033page
る。したがって,そこに学習指導がなければならない。このことも,不用意に考えられていわしないかを心配するのだが,まことに杷憂に過ぎないのであればありがたいことである。
(2) 学習指導の構造に即する考察
学習指導の構造を上図のようにおさえるとしよう。
(1)教師は,このこどもに,この教材を通て学習することによって,具体的にどのような知識や技能や態度を獲得させ,それらが学力として身につくようにするのか,当面しては,認識的領域のものに,あるいは情意的領域のものに,または技能的領域のものに,そのいずれかに重点をおくか,すべてにわたるか,これらのいずれか二者に焦点づけるか等の目あてを確かにおさえると同時に,子どもの学習目標にそれらがなり得るように十分配慮しなければならない。今日,目標分析という作業が強調されているのは,このためであって,「落ちこぼれ」をつくらない指導とか,ひとりひとりを「いかす」指導とかを目ざすならば,当然たしかな研究がなされなければならないわけであるが,未だしの感は否めない。
(2)教師は,子どもの実態(とりわけ,この教材の学習に対するレディネス調査による結果や,必要あれば事前テストの結果)をふまえて,指導法(さらに後述する)を組織し,教具を整えて,指導の実践を展開しなければならない。この場合,さきに考察した,学習についてのすべてのことがらが配慮されなければならないが,どの子にも目を注ぎ,指導の手を,その子に即してさしのべる工夫は,工夫し過ぎるということがないことを銘記しなくてならない。現実に45分なり,50分なりの指導時間の中で,1クラスの人数から見て,それは不可能であるとも言われるかも知れない。しかし,それ故にこそ,学習形態の組み合わせなり,教育機器の活用なり,とにかく古い指導の殼を打破しようとする努力を積み重ねなくてならない。さらに,学習の仕方の学習について,特段の留意をすることである。たどえぱ,読解の指導をすすめている場合,教科書の文にもどって見るように指示をし,そのことによって理解することができたとき,文にもどってみて考えることは,このようなときの学習の仕方であることに気づかせたであろうか。今までの指導では,これははなはだ疎かにされてはいなかったか。理解させることは,きわめて巧みな教師が,その巧みさにかまけて,理解の仕方を意識づけなかった手ぬかりを指導の実際場面で,筆者は可成り見てきている。この小さな心くばり,ごく目常的なあり方の中に,今日強調されている学習の仕方の学習の指導,それは主体的に子どもが将来にわたって学習しつづける能力を育てる大事な指導なのだが,その手がかりを捉える1つの鍵があるのを見落してはなるまいと思う。あえて記す所以である。
(3)子どもの学習活動については1の(2)において述べたところを基本として考察されるべきである。とりわけ,学習意欲の問題について十分な対処をはからなければならない。ここでは,学習意欲の病理的現象とも見られるものをあげるにとどめる。それは,強迫神経症的なもの,あるいは賞指向的にとどまるもの,または,罰回避的なものである。これらは,学習意欲を規制する条件中特にその場的条件の中に,その病因的なものがひそむと見られる。その病因的なものの排除に予防に,綿密な配慮が必要なことは,言うまでもないであろう。
ところで,1の項において述べなければならなかったことではあるが,学習は本来主体的なものであるが,人間がよりよく生きていくためのものである以上,学習はまた相互主体的なものでなくてならない。なぜなら,人間は相互主体的に生きていくのでなければならないからである。それは,現実の学校における学習が,学習集団の中で,相互に対話しながら,協力しながら,学習の目あてにアプローチするあり方において行われることを通して,実現される。学習指導では,子どもの学習活動で,この面をよく配慮しなければならないし,現場での工夫もそれぞれになされていることは確かではあるが,たとえば,「考え合う学習」とか,「協力学習」とか,「助け合い学習」とか,「個別化と集団化」の組織化とかのようにであるが,一層の研究を期待したい。
(4)教材(学習材)については,項をあらためて考察する。
(3) 学習指導法について
学習指導はすでに教育の方法である。それなら学習指導法という表現は,どう解すべきであろうか。これは,学習指導の形態と見ることができよう。もろもろの指導形態があり,またそれぞれ工夫がこらされてその有効性が主張されていることもたしかである。しかし,一つのやり方が万能であることはありえないことに,深く思いをいたさなければならない。それぞれのヤり方のもつ意味,他とのかかわり,その限界,はてはそのやり方が不用意になされるときのマイナス効果,これらを十分吟味してとりあげなければならない。しかも,何々方式以外は,あやまりであるかのような錯覚にとらえられている向きがないでもない。子どもの学習を真つ当に成就させるために,望ましい学習指導法は,組織化されるべきものと心がけたいものである。
(4) ひとりひとりを「いかす」字習指導ということについて
どうしてこのような学習指導が問題にされるようになったかについては,もはや説明の要はないと思われる。しかしながら,このことは,単に「落ちこぼれ」のない