福島県教育センター所報ふくしま No.34(S52/1977.12) -012/026page
随 想
パ ッ ク 文 化 と 教 育
第1研修部 舘 野 勉
最近は,スーバー店とやらが雨後の筍のように現れてそこへ行けぱ,まず大抵の用は片づくことになっている。しかも,そこに並んでいる商品は,完成品か半完成品であり,家庭に持ちかえって,そのままかちょっと細工するだけで使えるものばかりである。とくに,食品はパック製品と称するものが多く,加熱などの復元処理ですぐ食卓にならぶ仕掛けである。パックは食品ばかりではない。パック旅行からパックの結婚式,バックの葬儀という次第で,いまやパック人生花ざかりである。手間がかからず,しかも便利というのだから,忙しい毎日をおくる現代人にとって欠かせない生活の方法なのであろう。
ところで,こうしたパック文化――とあえて呼ぶことにする――の便利さとひきかえに奪いとられたものに,私たちは意外と気づいていないのではなかろうか。
◎ 「おすそわけ」 は消えゆく
「きょうは,お隣りの ちゃんのお誕生日だったんですって。」と言いながら母が皿にわけてくれたお隣りからの「おすそわけ」の赤飯のおいしかったこと。それは,自分の家にはない味であった。
「この天ぷら,お隣りにもっていって……少しですけど,初もののさつまいもです……っていうのよ。あいさつもちゃんとするのよ。」と母に言われてのおつかい。紙でおおった熱い皿を捧げ持って夕闇の中を一目散。
こんな状景を幼い日の思い出としてもっているのは,もう年配の人に限られているのではないだろうか。この頃は,こんな光景はほとんど見られないからである。そして,それはスーパー店の隆盛,バック食品の隆盛と無縁ではないように思えるのである。パック食品を食卓にならべるだけの昨今,どこの家庭の味もすべて同じになってしまった。「おすそわけ」という風習は,こうして消えてゆく。
それは,単に風習が消えるというだけのものではない。隣人への「おすそわけ」を通しての「思いやり」の心を育てること,他人の家の訪問の礼儀作法を身につけさせることなどの「躾」の場を失ったことを私たちは知らなければならない。近所つきあいをとおして人とのつながりを子どもの頃から体験させる場を一つ失ったという意味の重さに気づき,それにかわる「躾」の場を見つけてやることは,プロとしての教師の仕事ではないだろうか。
◎ 「目玉焼き」 は残った
先頃,テレピで,「料理はできるか」と司会者に問われた若い女性タレントが「料理は得意」と答えているのを見た。料理が得意とは近頃珍しいと思っていたら,その料理というのは,「目玉焼き」であった。もちろん,観衆は笑った。私も一瞬「パカバカしい」と思った。
しかし,考えて見れば,今のようなパック時代であれぱ,「目玉焼き」は手作りの味を出せるものとして残った数少ない料理といえるのかもしれない。個性喪失の味の世界に「目玉焼き」は残ったのである。「得意な料理は目玉焼き」というタレントを誰れが笑うことができようか。
よく,「誰れがやっても同じ効果をあげうる学習指導法」ということが言われるが,これをすすめていったとき,教師であるわれわれに「手作り」の個性の味を出せるものとして残るのは何であろうか。「教師として得意なものは何か」と問われたとき,われわれは「目玉焼き」に相当するどんな答えが用意できるというのであろうか。
◎ 「ディスカパジャパン」 というけれど
ディスカバジャパンなんていうと聞こえはよいが,最近の旅行は,すべてが業者のきめたいくつかのコースのパック旅行である。乗物はもちろん,宿の手続きや時刻表を調べる手間が省け,場合によっては電話一本で一切がすんでしまう。観光バスのバック旅行ともなれぱ,きめられたところ以外全く変更できない。つまりディスカバジャパン(日本美の発見)の「発見者」は,国鉄や観光業者であって旅行者自身ではないのである。
よそ道は許さないということが,効率的なコストの安い旅行を与えてくれた反面,思わぬ発見の旅の妙味を奪ってしまった。いま,もてはやされていているフローチャートによる指導も,既定のコースに従って学習させる点では,パック旅行によく似ている。とすれぱ,その学習の合理化とひきかえに失ったものを見きわめ,どこでその回復をはかるかというフォロー体制ができていなけれぱならないのではなかろうか。
時の流れにさからって棹をさせというのではない。社会・経済の変動の中で失われていくもののうち,子どもの心を育むために何を残し,それを新しい生活のどの場面で育て,身につけさせられるかということを考えるべきだというのである。