福島県教育センター所報ふくしま No.34(S52/1977.12) -015/026page

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 組織構造のフォーマル化と科学的管理が確立されてくる。
2  経営組織の現代化
 近代の経営組織のフォーマル化は,その合理性を追求するあまり,定型化されないインフォーマルな面を見落していた(人間疎外)。ここに現代化における人間関係論が登場した。教育における人間関係論は,近代化を通らないで現代化するところに疑問があるとの批判がある。学校経営の現代化を唱え人間関係を云々するなら,そこには教職員の人間疎外をひきおこさせるほどの組織,極めてフォーマル化した合理的な経営組織があることを前提とするともいっている。
3  経営参加
 一般に経営体における経営上の意志決定の主体は経営管理者にある。学校経営の経営主体は校長であり,その意志決定に教師が参加することが,経営参加である。
学校経営の意志決定は
1)  問題の所在と性質を明らかにする「識別」の段階
2)  問題に関連する事実の集収と分析を行う「分析」の段階
3)  可能な問題解決の複数の方法の考察をする「立案」の段階
4)  その解決方法の効果や副作用の比較による最適な方法の選択を行う「選択」の段階
5)  最終決定をする「決定」の段階
 このような段階で経営上の意志決定は進むと考えられる。この経過過程での参加が望まれる。しかし決定の段階での教師の集団決定はなじまない行為であるし,聞きおくことですごすことは,教師のモラールを低下させる。
 経営参加の手法の実際的な運用は,経営管理者のリーダーシップに期待される。
 
III  学校経営と人間関係
 
 学校経営が充実し,真に教育目標の達成に迫るためには全教職員の協力がなけれぱならない。それは教員のモラールの高低がすべてを決すると言ってもよいのではなかろうか。
 山口県教育センターで行った「教員のモラールと満足度の調査」は非常に参考になるが紙面の関係上略する。
 
IV  教職の専門性
 
 「教職は専門職と認められるものとする」とは,ILO・ユネスコの「教員の地位に関する勧告」中にある一節である。この専門性について紙面の範囲内で述べたい。
1  専門職性の意味
 専門職の定義については外国人の規定と日本での規定は大部異るように感ずる。
 わが国の定義(尾高邦雄,竹内利美,岩下新太郎吉本二郎の各氏の総合)
(1)  社会の存続発展に不可欠な人間関係に関する職務で,他と判然と区別される明瞭な職務内容をもつ。
(2)  これにつくには,すぐれた素質・高度の教養,長期にわたる訓練・熟達した技術,ひろい心惰を必要とする。
(3)  固有の倫理原則をもち,奉仕の精神で実践される非営利的職業だが,担当機能の社会的重要度と適挌者の稀有性のため厚い報酬が与えられ,高い社会的評価を受ける。
 以上のように定義されている。一面で教職は専門職といわれている。しかし,現在教職は専門職たり得るかと,きびしい批判もある。その主な点は次のとおりである。
2  教職が専門職たり得る疑問
(1)  他の専門職ほどの秘儀性を有しない。
 初等教育の教員の役割は,母親に類似し,中等教育の教員はより技術者のそれに近いといわれるが,教師に要求される多芸多才は勢い場当たりの勘仕事に赴かせることになる。この水増しされた百科全書的知識・技術は専門家的厳密性を維持できない。
(2)  教師の修業年限は他の専門職と比較すれば遙かに短く,その資格取得は,はなはだ容易である。
(3)  免許資格がルーズである。
 教員不足に際会する時,恒久的な対策である教員の雇用条件の抜本的改善と教員養成機関の拡大強化というよりは,短期間の達成コースで臨時免許状を与えるなど,資格取得が容易であった。
3  東北大学の実態調査
 教職は非営利的,奉仕的であるという点だけは,専門職の基準に合致するが,専門技術と長期の訓練特別の才能,資質という点で他の専門職に劣っており「準専門職」的な実績と評価をしている。
 以上の教員の専門職性に対する批判を見ると,実際学校教育現場に勤務する者として,耳痛く感じるが,専門職たり得る資質は,他から与えられるものではなく,われわれ自身が,身につけなけれぱならないことと思う。

 むすぴ

 冒頭におことわりしたように紙面に制限もあり講座資料を詳細に記述できず,論旨も大部飛躍させてしまったことについて深くおわびします。


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