福島県教育センター所報ふくしま No.35(S53/1978.2) -011/026page
随想
誤 解 と 例 題
第3研修部 金 沢 義 夫
同音異義による誤解は多い。「世話になんない」という挨拶も,方言のアクセントで聞けば心あたたまる。けれど,その習慣のない人が耳にすれば不愉快な思いをする。(あんたの世話にはならないよ と聞えるから)
言葉は自分の生活範囲の習慣で翻訳される。
「はえたたきを持って来い」といわれたとき,煙草をす う人は灰皿を,煙草をやらない人は蝿叩きをもっていく。 あるいは会話中に不注意にも専門語,英語,略称を混ぜ 込んでしまうのも生活習慣のせいである。
人は,自分の生活に使っている言葉で もの を理解す る。だから,どうにもうまく表わせない状態が,自分に 合うような言葉で表現されたり,リズミカルに調整され たものにあうと, いたく その言葉に惚れ込んでしまう。
「愛は輪に似ている。輪には終りがない」などの格言的 なものが,彼の生活の支えになっても不思議はない。
さらに入は,会話による言葉の位置,すなわち言葉を 思考の筋道に起用するようになり,生活のバランスを楽 しむようになる。
かくして話者Xと話者YがPなることで話し合ったと き,Xから発信したPが,YにはP’として頭脳に受信さ れ,今度はYからP’を発信したのに,XはXなりの生活 から見做しをこころみてP”に直したとする。すると
- P→P’
- P”←P’
- P”→Q
- Q’←Q
のような過程を展開することになる。話者の数がふえるほど生活が多く参加してきて,終局には,はじめのPとは大分ちがった話題になっていよう・・・が,そこにある「生活のバランス効果」は貴重である。
ところが,ここに誤解を招く隙間がある。
楽しそうな会話の裏では,異状な,未経験な,特別な反応も発生している。だから表面は流れに沿いながらもいつかは,いつかは自説を述べるチャンスがあろう。と間合いをうかがっているものだ。そのうちに終ってしまう。・・・誤解はその後に発生する。
たとえば
- 奴は天才だ
- 天才というものは限られた人間だ
- 普通ではない
- たしかに奴は,普通ではない
- ・・・奴には変なところがある
- 渋柿たべても平気だ
- 奴は,変な奴だ
- 変な奴だ
- 天才ではない
のように,結論では別物になる手段がある。
「噂」もこの類のものだ。戦国時代にはこの手段を利用して敵の背後攪乱に成功している。
つまり,誤解はある時点での確認をおこたったところに寄生している。
確認できない状況下にあればなおのこと流言に悩まさ れることであろう。
問題を前にした生徒の脳裏は,まさに確認しようもな い状況下の混迷に似ている。
これを助けるには事前の例題演習しかない。例題は誤 答の発生をけん制する。
従って例題をえらぶ場合は,誤答の作意的な寄生状態 を検討していなければ意味がない。
「誤解をとく」ためにこ選んだ例題である限り,誤答は確 認のための大切な手続きなのだから―。
「教師は,自分で問題が作れなければ・・・」ということ を聞くが,生徒を誤解から守るための提示としてもうな ずける。
ところが,例題を作成し検討しても「生徒を誤解から 守る」手段には及ばない場合がある。
- M:だから,家庭でつかっている電気は,このような波形で,これを交流という。
- N:・・・?・・・でも,家の電線は波型ではない。
N君のような,突然の質問にあえば,大方は二の句がつげない。
某老人は「わかった!,電気が強いのは,あの高い山 から電線のなかをいきおいよく落ちてくるからだ」それ を聞いた人は,なるほど,そういう理解の仕方もあるの か,と感心したという。
これは誤解だろうか, そういう 風に考えてみると一切 が解きほぐれるから, そういう 風に考えただけなのであ る。すなわちと,多くはないが,理解には一般とは異なる ものもある。―― いや,理解の仕方は様々なのかも知れ ない。
よって,説明のときはよくうなずいた生徒でも,即座 の小テストの結果が悪いことがある。彼なりの考え方と 説明が,妙に同調していたのだろう。
この妙な同調を修正するにはたとえ話しかない。本質 を把ませるための別法である。手続きはあとで工夫する として,本質を把ませる別法の精選が先きである。