福島県教育センター所報ふくしま No.36(S53/1978.6) -003/034page

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それを受ける教育の内容については、国民として必要とされる基礎的・基本的なもの重視がうたわれ、方法においては、個性や能力に応ずるあり方が行われるようにするのでなければならないとされている。そして、これらの在り方は、ゆとりのある状況の内で、充実した学習を行うことによって目的によく迫ることができるのでなければならない。という次第ではないであろうか。

 したがって、ねらい1に示されてあるところに迫るためのねらい3であり、ねらい2であるわけで、ひろい意味でねらいの3および2は、教育の方法にかかわるものである。だから、この場合も、方法が目的の座にすわることは、あやまりであることを心しなければならない。かつて、ジャック・マリタン(Jaques Marutaun)が教育にかかわる7つのあやまりを指摘したなかで、第一に、方法が緻密に発達して、かえって目的を忘れることのあやまりをあげている(注1)のを思いおこさないわけにはいかない。

 ともあれ、「ゆとりと充実」なる問題の3つのねらい全体のなかの位置と役割を筆者は上記のように押えている。


2.「ゆとり」と「充実」の関連について

 ゆとりのあるしかも充実した学校生活が送れるようにすること。とある「ゆとり」と「充実」との関連を、どう押えるべきか。このことを、「しかも」を吟味することを通して考えてみる。

 「しかも」がAなる事態とBなる事態の関連を示す場合、(1)Aに加えてB、(2)Aに即してB(Aに即してBが同時に展開する)、(3)Aに対してB(AであるにもかかわらずB)という3とのあり方を示し得るであろう。

 ゆとりのあるしかも充実した学校生活という言葉は、ゆとりのある学校生活と、充実した学校生活の2つの事態を一括して言表していると見て、「しかも」は上記(2)の機能をはたらかせていると見るのがよいと考えられる。すなわち、ゆとりのある学校生活は充実した学校生活として展開するのでなければならないと解すべきだというわけである。

 「ゆとり充実」は、「ゆとり即充実」でなければならない。ゆとりが充実に展開しなければ、真にゆとりとはいえないということになる。実際ゆとりがあっても、充実した生活とはならない場合があることは、誰でも知っているところである。ひま(強調文字)をもてあましているのでは、ゆとりが本当にあると言うことができない。学業はそっちのけにして、もっぱらレジャーをたのしんでいるある種の学生の生活など、ゆとりのある生活を真に送っているなどととても言うことができないのではないか。

 ゆとりがあるということは、そのままいつでも生活にプラスに作動するとは限らない。マイナスに作動する恐れがあることを十分警戒しなければならない。過密ダイヤ式の学生生活では、ゆたかな人間を育てることはできないから、ゆとりのある学校生活を送れるようにしなければならないとする。しかし、そのゆとりが即充実に展開するのでなければ、とうてい人間性豊かな児童生徒を育成し得ないことは明らかであろう。

 しかし、また充実にのみ心をうばわれて、ゆとりを忘れたら、ゆたかな人間としての充実を実現し得ない。 もちろん、上述したことは、誰でもすでに承知のところでなければならない。自らにこのことをたしかめる意味の表現に過ぎない。

3.充実した生活とは

 ところで、まず充実した生活とは、どのようなものであるかを整理してみよう。それは次のようにも述べることができるのでなかろうか。すなわち、

 ひとりの人間が、個人生活・集団生活の双方において、生きる意味を充たし、価値を実現することができること、及びその見通しがたしかであること。したがって、生活における自己の努力に対する内的報酬を実感することができ、そこに自己が真っ当に実現される。そういう生活である。ということができよう。

 これを子どもの学校生活に即して言うならば、子どもが、学業においても、その他の学校生活においても、友だちや教師との関係においても、自分なりにしっかりやれた、やることができるという実感のある学校生活であり、単に感じているのでなくて、実際その子なりに着実に高まりを証しうるその子の学校生活がそこに現に展開されているし、これからもそのようである見通しがたしかである。このような学校生活ということになるのでなければならない。

4.ゆとりのある生活について

 ゆとりのある生活についての考察を、充実した生活についての考察のあとに行うのは、ゆとりの問題に傾斜し過ぎて、充実の問題を深く考えないようになってはと思


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